パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『はじめに・回転木馬のデッド・ヒート』 おりと澱と檻 

今回は短編集の序文となっている、『はじめに・回転木馬のデッド・ヒート』を考察します。こちらの序文では「小説とは何ぞや?」という著者の思いが短くまとめられています。『1973年のピンボール』と、全く同じことが書かれています。

 

 

四段プロット 論理の展開

小説家のリアリティは小説の中にある

 著者は、短編集『回転木馬のデッド・ヒート』に納められた文章を、小説でもなくノン・フィクションでもなく、「スケッチ」と定義する。その「スケッチ」では、「我々はどこにも行けない」という無力感の本質であるおり(澱・檻)を描いている。

 著者にとって小説とは、現実的なマテリアル(材料・原料)を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原型が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用したもので出来ている。

意識の底に沈積するおり(澱)

 著者は小説の展開に沿って、無意識に材料となる断片を選びとって使っているため、使いきれないおり(澱)のようなものが、自身の中に溜まっていくと感じている。また、著者が他人の話を聞くことが好きだということも、そのおり(澱)を溜め込む原因のひとつとして考えている。

自己表現は精神を解放しない

 どの小説にも組み込まれることなく、日の目を見ないおり(澱)達が、「語られたがっている」のを発見すると、著者は居心地の悪さを感じる。しかし、そのようなおり(澱)を上手く表現できたとしても、著者自身が楽になったり、精神が解放されるといった感覚は得られない。著者は、自己表現は精神を細分化するだけだ、と思っている。

メリー・ゴーラウンドのようなおり(檻)

 そして著者は、「人は誰しも、人生の運行システムを所有しているが、そのシステムは我々自身をも規定し、メリー・ゴーラウンドのようにどこにも辿り着けず、仮想の敵とデッド・ヒートをくりひろげている」に過ぎないとする。

 

関連する作品 問題の抽出 檻と澱

1973年のピンボール

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こちらの序文では、「1973年のピンボール」と全く同じことが書かれています。

ピンボール・ゲーム = メリー・ゴーラウンド

敗血症の猫と配電盤 = おり(澱・檻)

 

ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、”ーP.30

”何もかもが同じことの繰り返しにすぎない、そんな気がした”ーP.11

”誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた”ーP.6

”彼らはまるで涸れた井戸に石でも放り込むように僕に向かって実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった”ーP.5

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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"自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる”ーp.76

 

『日々移動する腎臓のかたちをした石』

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何かしらのおり(澱)が、自分でも気がつかないうちに、自身の内側に滞積しているというお話です。

まとめ 私たちを守り、制限する牢獄

羊をめぐる冒険

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「生いたつにつれ牢獄のかげは、われらのめぐりに増えまさる」

生きていくために、不要なもの、危険なものとして、牢獄に投げ込んでしまった感覚の悪影響が私たちの周りに広がってくる。