パスタを茹でている間に

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考察・1973年のピンボール 自己変革を目的とした小説

 村上春樹著、長編『1973年のピンボール』を考察します。本作は著者にとって二作目の長編です。「喪失感」という言葉を使わずに考察します。

 

テーマあるいは出発点

”これはピンボールについての小説である。”ーP.29

 

ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。”ーP.30

 

著者の解決あるいはメッセージ

(この)小説を書くことは、自己表現ではなく、自己変革を目的にしている。自分らしさの追求ではなく、自我(エゴ)の中から自己(社会と共有できる自分)を抽出し、自我を縮小することである。純粋な自我(エゴ)だけを取り出して分析することは不可能なので、自己によって包括することである。

 

 

ピンボール」 = 「小説(を書くこと)」

著者はインタビューなどで、小説を書くことは自己療養だと答えていることがあります。「これはピンボールについての小説である」とした上で、「ピンボール(この小説)は自己表現を目的としていない」と書いています。なのでこの小説は自己療養的な自己変革を目的にしているようです。
この小説においては、「ピンボール」は「小説(を書くこと)」と同義で、記号として扱うことが出来ます。(等価なので象徴ではありません)

メタファーの例 比喩表現と概念メタファーの違い

比喩表現としてのメタファー(暗喩)

ピンボールの目的は自己変革にある。

比喩表現のシミリー(直喩)

自己変革の試みは、まるでピンボール・ゲームをプレイするかのように不毛で、得られるものは何も無い。

概念メタファーとは?

例え話を用いるなどして、ある概念を別の概念を利用して表現・説明出来ること。また逆に、その表現・説明を理解する認知機能。

村上春樹のメタファーはどっちか?

著者の比喩表現をなんでもかんでも「メタファー」とする読み方もありますが、村上春樹作品以外では、「記号」「象徴」「シミリー」「比喩表現としての暗喩」は全て別物です。
概念メタファーが、全ての比喩表現を包括的に可能にしていますが、「比喩表現としてのメタファー」の最小構成単位は文です。
なので私は、著者の表現手法と読者の解釈の間における「概念メタファー」以外については、「メタファー」という語を使わず、より一般的な言葉に置き換えるように努めています。
比喩表現をメタファーと読むのは誤用ではありませんので、どちらかというと私個人の好みの問題です。(私自身が混乱しない為にです。)

村上春樹流、自我と自己と井戸

 まず、自己は社会の中における自分で、自我とは自己に囲まれる形で社会とは全く接点を持たない自分です。しかし、自己が社会と接しているために、自我は自己を通して社会から何らかの影響を受けます。
〈通常〉、自己は意識されている自分自身なので認識が可能で、自我については意識できる部分と無意識の部分があり、またイドにいたっては、全くの無意識で自分で認識することができません。
この〈通常〉というのが曲者で、心理学の派閥だったり、哲学者によって解釈が異なります。
なので、上述したのは村上春樹流を私なりに解釈したもので、間違いもあると思います。

スターシステムをどう取り扱うか?

 本作では、『羊をめぐる冒険』の「鼠」や、『ノルウェイの森』の「直子」、また、なんかの短編に出ていた「双子」が登場しますが、それら他の作品について、私は無視します。
 というのも本来、一冊の小説に描かれている内容は、一冊に纏められているべきなので、名前が同じなだけで別物として扱います。もちろんシントピカルな考察もあろうかと思いますが、パッケージとしての作品に対し「一冊に描ききれていない」とケチをつけているような気になります。
 著者が本作に描いていないもの(あるいは、描けなかったもの)は、「描かなかったことに意味がある」という著者のメッセージとして受けとります。
 とは言いつつも、私も一つの記事に対していくつもの別の参考図書や引用を付け足したりしていますが…。あまり多くなるようなら別記事に纏めるように心がけています。

自己変革の途上にある鼠


まず、「鼠の物語」ですが、大学を中退し田舎に戻り、金持ちの息子なので特に働くでもなく、ジェイズ・バーに通い、週末に彼女の家にいく生活を繰り返しています。ですが、25才にして「これではいけない」と思い、故郷を離れる決心をします。

”彼は同じ道を辿って彼自身の世界へと戻っていった。そして、帰り途、捉えどころのない哀しみがいつも彼の心を被った。行く手に待ち受けるその世界はあまりにも広く、そして強大であり、彼が潜り込むだけの余地などどこにもないように思えたからだ。”ーP.58

本作のテーマである自己変革の途上にあるのが鼠です。社会と共有すべきモノが自身の内側に見つけられず、住み慣れた心地よい街に留まり、前に進めないのが鼠です。

純粋理性批判 理性の使用可能な範囲を限定する

 主人公の「僕」の愛読書である「純粋理性批判」ですが、一体どんな哲学書でしょうか?かなり乱暴に言ってしまうと、「理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学」という内容です。例えば、カント以前は神の存在証明は哲学の範囲だったのが、カント以降は哲学ではあまり取り扱われなくなりました。

純粋理性批判」と本作の関連

本作に絡めて無理矢理こじつけてみると、「自己表現としての小説」を自身の著作から追い出し、「自己変革の試み」に限定したことです。他にもありそうですが、読みきれませんでした。


通り抜けていくだけ 終始変わらない主人公

”僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をすり抜けていくだけのことだ。”ーP.181

 

”「(略)そしてこう思った。もう何も欲しがるまいってね」
(中略)
「靴箱の中で生きればいいわ」”ーP.110

 

”僕の顔も僕の心も、誰にとっても意味のない亡骸にすぎなかった”
ーP.79

 

”「殆ど誰とも友達になんかなれない」それが僕の1970年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。”ーP.41

 

”何もかもが同じことの繰り返しにすぎない、そんな気がした”ーP.11

 

無職の鼠に比べ、ちゃんと働いている「僕」なのですが、達観してしまっています。本作におけるテーマに則して考えると、自己の中に社会と共有すべきモノを何一つ持たず、自分の中をただ通りすぎていくモノとして傍観しています。

配電盤のお葬式 敗血症の猫

「僕」は学生時代のアパートで、たまたまピンク電話の近くの部屋だったために、電話の取り次ぎ役になってしまいます。ピンク電話を共有することなく、各部屋に電話が引かれる時代になっても、なぜか配電盤が「僕」の部屋にあり、交換作業に立ち会うことになります。配電盤も取り次ぎ役なのですが、双子曰く「いろんなものを吸い込みすぎて死にかけている」らしく、お葬式をすることになります。
「僕」にしてみても、ただ取り次ぎ役として自身の中を通過させているだけだと思っていたのが、なにかしらを吸い込みすぎて敗血症の猫のようになってしまってるようです。

自分語り 井戸に蓄積される石

”誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた”ーP.6

 

”彼らはまるで涸れた井戸に石でも放り込むように僕に向かって実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった”ーP.5

 

「僕」はいろんな人の話を聞くのが好きだったと語っていますが、その時代は互いにエゴ(自分語り)をぶつけ合って生きていたと読むことも出来ますし、そのような他人の石(意思)が自分の井戸(イド)に蓄積されたとも出来ます。
他の誰とも違う、自分らしさを求めての「自分探し」ですが、誰もが皆、一様に「自分探し」をしていたの時代なら、それは「自分らしさ」ではなくミーハーで流行に乗っていただけの話になります。
「僕」は、「ただ通り過ぎていった」とドライに構えていますが、無意識の領域に自分では処理できない敗血症を抱え込んでしまったようにも読めます。

スペースシップ スリーフラップのピンボール

「僕」はあるとき没我的にピンボールに熱中するわけですが、ソクラテスの没我的思考とは、他の人から離れて、一人きりで自問自答する思考方法のことを言います。

 

”ガラス板は夢を映し出す二重の鏡のように僕の心を写し、”ーP.120

 

「夢」を見ようとしていたので、覚醒の状態で無意識を探ろうとしていたことが分かります。

直子の死 狂っていた1970年

”何人もの人間が命を絶ち、頭を狂わせ、時の淀みに自らの心を埋め、あてのない思いに身を焦がし、それぞれに迷惑をかけ合っていた。1970年、そういった年だ。”ーP.61

そんなものを直子に象徴させているのだと思います。つまり、唯一ちゃんとした名前を与えられているキャラクターですが、「僕」が忘れられないのは、「直子」一人の死ではなく、狂ったような時代の中で死んでいった全ての命です。

金星人と土星


直子のエピソードと双子の登場を、金星人や土星人のエピソードと同列に置いていますが、これが「僕」の物語を全体的に現実感のないファンタジーにしています。双子のおかげでユーモラスで動きのある物語にはなっていますが、基本「僕」は変わりません。
一方で、鼠の物語は寂しく閉塞感がありますが、写実的に描かれています。

変わらない「僕」と変わろうとする鼠


双子の登場や、配電盤のお葬式、ピンボールとのお別れを済ませたあとでも、「僕」は一貫して「僕」のままです。一方で社会に合わせて変わろうともがいているのが鼠です。強引に結論付けてしまうと、「僕」がエゴで、鼠が「自己」です。
「シラケ世代」なんて個人主義のスタイルがありましたが、そのような態度は結局はエゴを拡大し、互いにぶつけ合っているだけです。最終的に鼠は自死を選んでしまったのかも知れませんが、社会の中における自分「自己」を積極的に殺そうとしていたのは「僕」でした。

 

そして今は、「他人なんてどうでも良い!今すぐ私を幸せにしろ!」という超個人主義というか、個別主義の時代に突入しました。「なんちゃらファースト」に良く現れています。
個別主義のスローガンは「分離・分断・分裂」です。人と人との繋がりが希薄になっていくのに比例して、原理主義者の人たちは結び付きを強めていきます。公分母はありません。