パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『品川猿の告白』 名前を盗む猿

 短編集「一人称単数」より、『品川猿の告白』を考察します。

 こちらの短編集はエッセイのような文体で、主人公も著者自身と思われるような語り口で物語が進んでいきます。しかし、明らかに現実では起こり得ない展開が待っていますので、現実(エッセイ)と非現実(フィクション)がシームレスに移行していく不思議な物語も楽しめます。

 こちらの短編集のテーマは全体として「一人称単数」のタイトルに表れているように「私とは誰か?」というアイデンティティの模索です。

”テーマ?そんなものはどこにも見当たらない。ただ人間の言葉をしゃべる老いた猿が群馬県の小さな町にいて、温泉宿で客の背中を流し、冷えたビールを好み、人間の女性に恋をし、彼女たちの名前を盗んでまわったというだけのことだ。そんな話のどこにテーマがあり、教訓があるだろう?”ーP.223

 読者に対する挑戦だと思われます。著者が「テーマなど無い」と否定しても、それが物語の形をした文章であれば、読者はそこから主題とメッセージを読み取る(こじつける)ことは可能です。

 

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  語り手の主人公は五年前に、思い付くままに行き当たりばったりの一人旅をしていた。男が群馬の温泉町にたどり着いたときには午後の7時を過ぎていて、旅館に泊まろうにも予約がなく既に夕飯時だったので数件の宿に断られた。しかし、一軒の鄙(ひな)びた温泉宿を見つけ夕食抜きで宿泊することになった。男は外で簡単に食事を済ませた後で宿の温泉に向かった。入浴客は一人もおらず貸し切り状態だった。男が湯に浸かっていると低い声で「失礼します」と猿が風呂場に入ってきて、「お湯の具合はいかがでしょうか?」「背中をお流ししましょうか?」と男に尋ねてきた。
  2.  男はお湯にのぼせてぼんやりしながら、猿の親切心を傷つけたくないと思い、背中を洗ってもらうことにした。品川区に住む大学教授に育てられたというその猿は、言葉をしゃべるだけでなくクラシック音楽も嗜み、教養のある礼儀正しい言葉で旅館で働いていることを説明した。興味を覚えた男は、君の身の上話を聞きたいと猿に言うと、10時になれば仕事が終わるのでその後で部屋に伺いますと、約束した。男が瓶ビールを二本注文しておくと、猿は簡単なおつまみを添えて持ってくるという気遣いまで見せた。両者はビールを酌み交わしつつ、猿は温泉宿で働くようになった経緯について語った。
  3.  猿はわけあって品川を放逐され、高崎山にたどり着いたが、人間に育てられたせいもあって、猿の群れに馴染めず「はぐれ猿」になっていた。孤独は猿を苦しめたが、猿は雌の猿に対して性欲を抱けず、人間の女性にしか恋情を持てないことも、猿の心を苛んだ。猿は満たされぬ恋情を解消すべく「思慕する女性の名前を盗む」という特殊な能力を身に付けた。猿が盗むのはその名前の一部分に過ぎなかったので、被害にあった本人も気づかないかもしれないと猿は語った。しかし中には、自分の名前を自分のものとして思えなくなったり、アイデンティティーの危機に近い状況さえも起こすと、猿は自身の悪業を懺悔した。
  4.  「具体的にどのような方法で名前を盗むのか?」男が尋ねると、「主に念力を使います。集中力、精神的エネルギーです。」と猿は答えた。しかしそれだけでは足りず、その人の名前が記された身分証を実際に盗む必要があると続けた。運転免許証のようなIDが理想的だと、形ある具体的な物体が必要だと説明した。そして、そこに記された名前に集中し、恋する相手の名前を意識の中にそっくり取り込み、女性の一部を自身の一部分とすることだと、孤独でプラトニックな愛の形を男に示した。

”「僭越なお願いかもしれませんが、愛に関しまして、つたない私的な意見をひとつ述べさせていただいてもよろしいでしょうか?」(中略)「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。(後略)”ーP.218

 

問題の抽出 礼儀正しく教養と気品を漂わせる猿 

 本作のオチ(後日譚)では、主人公が女性編集者と打ち合わせをしていると、その女性が突然自分の名前をド忘れしたので、温泉での出来事を思いだし、回想と語りが始まります。

 

名前を奪われること

 日本では名前を奪われることの危険性が、「千と千尋の神隠し」で分かりやすく描かれ知られています。ジブリ作品では他にも「ゲド戦記」で真名を隠すなどがあります。

 呪術信仰では第三者に名前を明かしてしまうと、その名前を呪術(呪い)に使われてしまうので、本当の名前を隠すという防衛法があります。また、キリスト教圏の悪魔払いでは、払おうとする「悪魔の名前」を知ることが重要で、敵の名前を知ることで相手をコントロール下に置くことが可能になります。

 日本では氏姓は天皇から賜るものなので、平民は使うことが許されませんでした。その後、勝手に名乗る人たちが現れたので法律で禁止されるのですが、国民を管理するために必要になったので苗字を使うように強制されます。現在では「マイナンバー」という番号で管理するようになりました。

 ネット文化では「ハンドルネーム」や「ユーザー名」などを使いますが、本名で活動することの恐ろしさは皆さんご存じだと思います。

 第三者に名前を奪われ、悪用されると大変です。特殊詐欺もまず名前を奪われ「誰だ」ということが特定されることから始まります。  

猿の語る高尚な愛の形

 推しのアイドル(偶像)を追いかけることで報われない思慕を成就し、自身の行為を正当化しようとする熱狂的なファンのように描かれています。しかし、「ファン=猿」として蔑むというよりも、より高尚な愛の形を提示しています。

”愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋をしたという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。もしそのような熱源を持たなければ、人の心は-そして猿の心も-酷寒の不毛の荒野となり果ててしまうでしょう。その大地には日がな陽光も指さず、安寧という草花も、希望という樹木も育ちはしないでしょう。”ーP.218

 むしろ結実しない愛にこそ、冷たい心を暖める熱源になるとの論理を展開しています。  

 

結実しない想いのやり取り

 また、著者は他の著作においても「生き霊」の可能性について思考実験を繰り返しています。そのとき、怨念のようなネガティブな感情ではなくて、肉体という墓場(ソーマセーマ)から精神を解き放ち、「個の純粋な意思」のようなものを取りだそうともしています。

 スピリチュアルで神秘主義的な発想ですが、著者はあくまでポジティブに理知的に取り組んでいるように見えます。1970年代にあったニューエイジ的な第六感や超能力を、オカルトに傾かせすぎないようにその可能性を検証しています。

 

関連する作品 肉体の制限を受けない精神

 前回の「品川猿」の考察では、「自分から切り離された自分」について関連作品を挙げてみましたので、今回は「肉体の制限を受けない精神」について関連作品を考えてみたいと思います。 

 

自分から切り離された自分(の一部)

 前回の考察「品川猿」の記事です。

 

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「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」 肉体の檻

"自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる”ー色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年ーp.76

 

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海辺のカフカ」 ポジティブな生き霊の可能性

”「人は信義や親愛や友情のためにはなかなか生き霊にはなれないみたいだ。(中略)しかし、君が言うように、前向きな愛のために人が生き霊になる例だってあるかもしれない(中略)愛というのは、世界を再構築することだから、”ー「海辺のカフカ(上)」P.479

 

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騎士団長殺し」 即身仏

”私も仏教の教義に対して詳しいわけではありませんが、私が理解する限りでは、涅槃は生死を越えたところにあるものです。肉体は死滅したとしても、魂は生死を越えた場所に移っていると考えることもできるでしょう。この世の肉体というのはあくまでかりそめの宿に過ぎませんから”ー「騎士団長殺し 第一部上」P.315

 

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アフターダーク」 幽体離脱

”全ての感覚を客体化し、意識をフラットにし、論理を一時的に凍結し、時間の進行を少しでもくい止める。それが彼のやろうとしていることだ。”ー「アフターダーク」P.196

 

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全力考察 愛があればこそ

 かなり不思議で面白い話です。私がどのように読んだか?は、プロットに示したとおりなのですが、読者によってまったく違った印象を受けとるかもしれません。

 私はこの短編集「一人称単数」は、全体として「自分とは何か?」をテーマに書かれていると思っていますので、こんな読み方になるのですが、前作「品川猿」を未読でも、他の収録作品と切り離し独立した作品と読んでも、単体で楽しめる作品です。

  

 「自分とは何者か?」という問いに対して、「◯◯を愛しているのが私だ」と、自分が愛を向けている対象で自分を説明できるのは、それ自体が幸福なことだと思います。

  

まとめ  ダークマターダークエネルギー

 今回の話題はかなりスピリチュアルでオカルトな展開になりました。なので最後は私たちの科学が分かっていることで締めたいと思います。

 

”宇宙に存在する物質・エネルギーのうち、約27%が「ダークマター暗黒物質:dark matter)」と呼ばれる仮説上の物質、約68%が「ダークエネルギー(暗黒エネルギー:dark energy)」と呼ばれる仮説上のエネルギーとされています。私たちが知覚している通常の物質は、残りの5%でしかないと言われています。”

ーsorae「【特集】「ダークマター暗黒物質)」とは? 謎に包まれた仮説上の物質」より 引用

 

 つまり、私たちの知っている世界とは5%しかなく、その5%の中で生きています。 

 分からないことを分からないままにしておくのは不安ですので、とりあえず不明な部分は「愛」ということにして補っておきましょう。