パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『レーダーホーゼン』離婚原因は半ズボン

 短編集「回転木馬のデッド・ヒート」より「レーダーホーゼン」を考察します。レーダーホーゼンとは、ドイツ伝統の吊りベルト式の半ズボンです。

 ざっくりとしたお話の流れは、著者が著者の奥さんの友人(30歳過ぎの独身女性)の、「半ズボンが原因で、母が父を捨てた」という体験談を聞いているというものです。その時に(当時大学二年生)、語り手の女性もついでのように母親から捨てられてしまうお話です。

 

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  著者が自宅で留守番をしていると、奥さんの友人が家を訪ねてきた。雨で予定が流れてしまったので、約束の時間よりも前に来てしまったとのことだった。奥さんは外出中だったので、著者は奥さんの友人に対して、共通の話題が少なく手持ち無沙汰を感じていたところ、彼女は突然「自分の両親の離婚」について語り始めた。
  2.  彼女の母親が55歳の時、母親の妹がドイツに住んでいて遊びに来ないかと誘われた。母親は長く英語教師をしていたが、海外旅行の経験がなかった。夫に相談すると、夫は仕事で都合が合わず、結局母親が一人でドイツへ向かうことになった。夫からレーダーホーゼンのお土産を頼まれたので、母親は一人で有名店に向かい、現地のドイツ人たちに優しく道を教えてもらいながら一人旅を満喫した。
  3.  お目当ての店に到着すると、老店員からは「オーダーメイドなので利用者が来ないと販売できない」という老舗のルールを聞かされる。しかし、諦めきれなかった母親は、店と交渉し夫に似た体型の人を連れてくるので作って欲しいと食い下がる。「今度はいつドイツに来れるか分からない」とお願いすると、「ドイツ人でも機転が利かないわけではない」と、老店主は方針を曲げて対応した。
  4.  モデルを快諾してくれた気さくなドイツ人は、夫とそっくりの体型だった。髪の薄くなり具合まで似ていた。店主とモデルが楽しそうに笑いながら採寸している様子を見ながら、母親は夫との離婚を決意した。

”そのレーダーホーゼンをはいた男をじっと見ているうちに父親に対する耐えがたいほどの嫌悪感が体の芯から泡のように沸き起こってきた”ーP.33

 

 

問題の抽出 なぜ離婚を決意したのか

 プロットでは省略しましたが、「性格は悪くないし、きちんと仕事もする人だったんだけど、女関係では比較的だらしのない人だったようね」と奥さんの友人は自分の父親を評しています。

 また、奥さんの友人は、親戚の葬式で母親と再会し「なぜ自分まで捨てたのか?」詰め寄ります。「いったいどのように話せば良いのか自分でも分からなかった」と母親は弁解し、「レーダーホーゼン」の話をします。そして娘は母親を許すことが出来たというお話です。

 

ポイントは半ズボンにある

”もし、さっきの話から半ズボンの部分を抜きにして、一人の女性が旅先で自立を獲得するというだけの話だったとしたら、君はお母さんが君を捨てたことを許せただろうか?”ーP.34

 著者が尋ねると、

”「駄目ね」と彼女は即座に答えた。「この話のポイントは半ズボンにあるのよ」”  

 

 と友人は答えます。なので、本作における半ズボンの効果を読み解かなければ考察になりません。

 

「やるべきこと」と「やりたいこと」

”一人で旅をすることはなんて素晴らしいのだろう、(中略)体験のひとつひとつが長いあいだ使われることなく彼女の肉体で眠っていた様々な種類の感情を呼び起こした。彼女がずっとこれまで大事なものとして抱えてきた多くのものごとーー夫や娘や家庭ーーは今はもう地球の裏側にあった。”ーP.28

 

 こちらの描写は、語り手の語りではなく著者の推察(脚色)です。基本的には「語り」の物語なのですが、うまく混ぜてあります。

 

”ある場合には創造力がいささか不足しているのではないかと思えるくらいに我慢強くーー家庭を大事にする人だったし、娘のことも溺愛していたからだ。”ーP.24

 

 こちらの文章は、娘(語り手)の言葉を著者がまとめているものです。

 「目の前にある」家事に追われていたため創造力が欠如したのか?創造力が欠如していたから、条件反射的に家事に専念したのか?

 「やるべきこと」と「やりたいこと」は全くの別物です。

 

目の前にいない夫

 そのドイツの有名な店では、利用者が来店し採寸した上でのオーダーメイドでないと半ズボンを売れません。ですが母親は、父親と似たような体型のドイツ人の協力を得て、半ズボンを買おうとします。

 通りすがりのドイツ人にモデルを頼み、店員とモデルとのやり取りを客観視しながら、「不在の存在」を想像したことで、母親は父親に対する憎しみを自覚します。

 

”母親はその人の姿を見ているうちに自分の中でこれまで漠然としていたひとつの思いが少しずつ明確になり固まっていくのを感じることができたの。そして母は自分がどれほど激しく夫を憎んでいるかということをはじめて知ったのよ”ーP.33

 

 「やるべきこと」から解放された母親が、自分がやろうとしていることを客観視する物語です。 

 

関連する作品 おりと澱と檻

はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

 短編集『回転木馬のデッド・ヒート』には、かなり興味深い序文があります。おり・澱(沈殿物)について著者の考えが語られているのですが、この作品も、

 澱(おり) = 檻(おり) とすることで、短編の楽しみ方が広がります。

 つまり、母親の檻(おり)が何であったのか?を考える読み方です。

 

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「生いたつにつれ牢獄のかげは、われらのめぐりに増えまさる」

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

全力考察 目の前にいない人をどれだけ想えるか

 あまり深く考えずに惰性で生きていた方が楽だったりします。

 仕事においても、「この手順・ルールは無駄じゃね?」というものばかりです。しかし、無駄だと分かっていても「皆やっていることだし」「俺が言ったり変えたりするのも面倒だし、角も立つ」だったり。

 「自分のやっていること」を客観視することは、ストレスが溜まるだけで良いことなんてありません。そんなことは小説家にまかせて、私たちは条件反射的に目の前のモノゴトを機械的に処理していた方が無難です。

 私たち人間は生活するように作られていて、考えるようには出来ていません。

 

 家庭は「守るべきもの」でしょうか?それとも「守りたいもの」でしょうか?両者は似て非なるものです。

 檻は至るところに存在します。澱は私たちが見過ごして蓄積した堆積物です。

 

まとめ 

”『大多数の人間は、泳げるようにならないうちは、泳ごうとしない』言い得て妙じゃありませんか。もちろん大多数の人間は泳ごうとしません!地面に生まれついて、水に生まれついてはいません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません!そうです。考える人、考えることを主要事とする人は、その点では多いに成果をあげるでしょうが、まさしく地面を水と取りかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう”ーヘルマン・ヘッセ著「荒野のおおかみ」P.21