考察・村上春樹著『TVピープル』 テレビは真実を伝えているか?
村上春樹著『TVピープル』を考察します。本作は短編集「TVピープル」の表題作となっていて、短編集の持っている全体的なムードを示す作品となっています。小説『1Q84』に登場した「リトルピープル」へと続く邪悪な系譜なのですが、こちらを「邪悪」としてしまうのは注意が必要です。と言うのも、どのような物事であっても、不都合や不条理を作り出し、呼び寄せているのは、他の誰でもない我々だからです。
四段プロット あらすじの代わりに
- 日曜日の夕方に主人公(僕)がひとりで自宅で寛いでいると、知らない人たちがチャイムも押さずに部屋に上がり込み、サイドボードの上にテレビを設置し始めた。彼らは人間をそのまま七割ほどに縮小コピーしたような大きさだった。一人がドアを開け二人がテレビを抱えリビングへ入ってきて、サイドボードの置時計や妻の雑誌をどかしてから、そこにテレビを据えて帰っていった。三人は終始僕の存在を無視し続けた。
- 僕はその様子に呆気にとられ一言も発することができず、作業を見守ることしかできなかった。妻は小さな出版社に勤めていて、彼ら(TVピープル)が無造作に片付けた雑誌は仕事に関係するものも含まれていた。家の物を所定の位置に収めないと気が済まない神経質な妻を思い、僕は言い訳を用意したが、所用を済ませて帰ってきた妻はテレビの存在は気にとめず普段通りだった。
- 妻がテレビについて触れなかったので、僕はその不思議な出来事を彼女と共有する機会を失った。翌日、僕は会社(電気メーカーの広告宣伝部)でTVピープルとすれ違う。混乱したまま朝の会議に出席した僕は、TVピープルのことばかりを考えていたので会議に集中できなかった。僕は元々そのプロジェクトに直接参加してはいなかったが、後ろめたさから当たり障りのないごく常識的な発言をし、場の雰囲気を和ますために冗談まで言っておいた。
- 昼食の時間になると、上司が僕のところへやってきて、「先ほどの発言は良かったよ」と賛辞の言葉を述べていった。僕は何かにつけてスマートなこの上司が嫌いだった。僕自身は会議での発言の内容を忘れていた。午後の会議が始まるとTVピープルが会議室へ入ってきた。テレビの置き場所を探しているようだった。適当な場所がなかったのか?TVピープルはテレビを抱えて会議室を後にした。その間、他の人たちもTVピープルを認識していたはずだが、誰もがTVピープルを存在しないものとして扱った。
問題の抽出 テレビは真実を伝えているか?
とりあえずテレビをつけてしまう
本当はもう少し長い話なのですが、後半は省略しました。私たちの生活に忍び寄るTVピープルですが、その存在に違和感を抱いているのは主人公だけで、他の人たちは当然のことのように振る舞います。
皆さんはテレビを点けているときは、きちんとテレビに向き合っていますでしょうか?新聞を読んでいるときだったり、家事の最中だったり、ネットで調べ物をしているときだったり、BGM代わりに「とりあえずテレビをつけておく」なんてことはないでしょうか?
テレビは真実を伝えているか?
「若者のテレビ離れ」なんてだいぶ前から言われていますが、むしろ離れていったのはテレビの方で、「テレビの若者離れ」が正しいと思います。テレビの衰退はそのような傲慢さに気付けていないことが原因です。
最近では報道の質も下がり、ネット発信のニュースを後追いしているようにも感じます。「報道のYahoo!ニュース化」です。ネットで話題になっていることは事実なので、その真偽については裏取りせずに、視聴者の望むままに垂れ流します。
一方で、NHK党や参政党についてはゲテモノ扱いを続け、彼らの躍進を懐疑的にデフォルメして伝えますが、ネットも併用して情報を得ている若者は、そのようなテレビの欺瞞に気付いてしまっています。政策を議論する場に、彼らの主張は大局的見地を欠きますが(特定の事柄に対するピンポイントな批判)、彼らの支持者は社会の欺瞞に対する怒りを彼らに託すべく投票権を用いています。
相対的に新聞の質が高まった?
新聞も2~3紙を平行に読まないとバランス感覚を失いますが、忙しい現代人にはそんな時間はありません。社会が望んでいるのは当たり障りのないスマートな常識人です。
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全力考察 それはあなたの意見ですか?
”私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。” ー内田樹著 「寝ながら学べる構造主義」より
まとめ 私の考えていることは私の考えだ
一編の作品を考察するのにも、いくつも引用・参照しなければなりません。もはやどこまでが私の考えで、どこからが借り物なのかもわかりません。
”人間は考える葦である”
「私の考えていることは私の考えだ」もちろんそうかも知れませんが、それって証明できますか?私が私だと思っているモノの内、三割ぐらいは既にナニかに置き換わっているかも知れません。三割で済んでいれば良いのですが…。