パスタを茹でている間に

村上春樹作品を考察しているブログです。著者の著作一覧はホーム(サイトマップ)をご確認ください。過去の考察記事一覧もホーム(サイトマップ)をご確認ください♪

考察・村上春樹著『石のまくらに』 生き延びた短歌と言葉

 短編集「一人称単数」より、『石のまくらに』を考察します。「一人称単数」は既に何編か考察していますが、テーマとなっているのは「わたしとは誰か?」だと思って読んでいます。本作では「創作物とは何であるか?」著者が創作に臨む態度が正直に語られています。

 著者の描く不思議な物語の源泉である、「冷ややかな石の枕」の秘密が書かれています。

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  「僕」が大学二年の時、大衆向けイタリア料理店でアルバイトをしていた。同じくアルバイトをしていた二十代半ばの女性がその店を辞めることになり、送別会が行われた。送別会が終わり、彼女と同じ方向の電車に乗って帰っていると、「家が遠いから、今日は泊めてほしい」と言われ、「僕」は応じる。二人はアパートに着くと時間をかけてビールを飲み直す。
  2.  そして彼女は当たり前のように服を脱いだ。十二月。二人は布団の中で互いの身体を温めあった。「他の男の人の名前を呼んでしまうかもしれない」と、彼女は「僕」に断りをいれた。彼女には好きな男性がいるが、その人にはちゃんとした恋人がいて、たまにセックスのためだけにその男に呼ばれると明かした。彼女はたしかに大声で誰かの名前を呼んだが、「僕」はよくある名前だったとしか覚えていなかった。
  3.  翌朝、「僕」が文学部に在籍していることを知った彼女は「小説家になりたいのか?」と「僕」に尋ねた。そして唐突に「私は短歌をつくっているの」と言った。「どんな短歌?」と「僕」が訊ねると、まだ朝だし恥ずかしいので「あとで歌集を送るよ」と彼女は約束した。「僕」は約束を期待していなかったが、数日後に歌集はきちんと「僕」の元に郵送された。歌集のタイトルは「石のまくらに」、作者の名前は「ちほ」と記されていた。活字印刷を凧糸で綴じた、全四十二首からなる私家版の歌集で、最初のページに28というナンバリングのスタンプが捺してあった。
  4.  それから長い年月が過ぎ、二人が再び顔を合わせることはなく、引き出しに収められた歌集は変色していた。「僕(著者)」は彼女の名前を覚えていないので、今となっては「ちほ」がペンネームなのかどうかも分からなかった。歌集に収められていた短歌の多くは死(斬首)のイメージを追い求めていた。

”あるいは僕以外に、彼女の詠んだ歌を記憶しているものなど、ましてやそのいくつかをそらで暗唱できるものなど、この世界のどこにも存在していないかもしれない。(中略)今ではみんなに忘れ去られ、この「28番」以外は一冊残らず散逸し、木星土星のあいだのどこかにある無明の闇に吸い込まれて消えてしまったかもしれない。”ーP.27

問題の抽出 「石のまくら」とは何か?

 表現者が普遍的な言葉を後世に残すためには、自らの心身を創作物に捧げる必要があり、自身を生け贄として斬首すべく、その頭を乗せる枕が「石のまくら」です。

辛抱強い言葉たち

 かなり長くなりますが、著者の創作の秘密を引用します。

”あれから長い年月が過ぎ去ってしまった。(中略)瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。(中略)夜半の強い風に吹かれて、それらは-決まった名前を持つもの持たないものも-痕跡ひとつ残さずにどこかに引き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや記憶だってそれほどあてになるものではない。(中略)それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小降りな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。”ーP.26

しかし、

”しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。”ーP.26

 かなり陳腐な要約をします。

  1. 人は瞬く間に老い、滅びに向かう。
  2. あとに残るのは記憶だが、記憶もまたあてにはならない。
  3. しかし、それでも、言葉が残る幸運もある。
  4. 言葉たちは気配を殺し、時代の風をやり過ごす。
  5. 言葉たちを残すには、自らの心身を差し出す必要がある。
  6. 自らの頭を『石のまくら』に乗せ、斬首する必要がある。

関連する作品 呪術的な洗礼

 物語をどう読むのかは読者の自由で、読者の感性や知識、体験に応じて見いだされるものが異なります。この、『石のまくらに』のレビュー・感想にしてみても、どこにフォーカスを当てるか?は、人によって実に様々です。読者は物語の中から読みたいモノだけを選んで読んでいます。

 それは鏡に向き合う時のように、物語は読者自身を写し出します。

 村上春樹さんは世界的に有名な作家ということもあり、アンチも大勢いるのですが、「気持ち悪い」「訳が分からない」「内容なんて無くスカスカ」と批判的に揶揄されることもあります。

 批判的に読む場合でも、著者の意図を読めない場合でも、「創作の苦しみ」を理解した上で、常に敬意は必要です。敬意を欠いた態度では、鏡に写る「スカスカ」の自分自身を貶めます。

スプートニクの恋人

”「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本物の物語はこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」(中略)

「そして暖かい血が流されなくてはならない」”ー「スプートニクの恋人」P.26

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

全力考察 「誰か」の名前

 著者は彼女の名前も、彼女が呼んだ男の名前も覚えていません。私はこの短編集「一人称単数」は「わたしとは誰か?」がテーマだと思っています。

 彼女にとって本当の自分とは「短歌を詠むちほ」の方だったでしょうか?それとも、長い人生の中ですれ違った名前も覚えていないその他大勢のひとりでしょうか?

 私も unadareru-Penguin としてブログを書いていますが、どちらがペルソナでしょうか?私が私であることの証を示せない間は、私の駄文もネットという無明の闇に吸い込まれてしまいます。

 しかしそれでも、何かしらの想いを発信することの喜びを、この短編には励まされている気もします。それが最終的には塵となって消えてしまっても。

 

”たち切るも/たち切られるも/石のまくら

うなじつければ/ほら、塵となる”ーP.27

 

 皆さんは本人を証明する身分証などを使わずに、「自分が自分であること」を証明する手段をお持ちでしょうか?

まとめ 村上春樹の名言

 人は皆、生きているからには、等しく死を迎えます。私たちが当たり前のように「生」を享受している間に、帳尻を合わせる必要が生じ、誰かが多めに「死」と向き合ってくれているのでしょうか。

 

 そして、言葉が生まれます。

”石のまくら/耳をあてて/聞こえるは

流される血の/音のなさ、なさ” ーP.11

 短編内で引用されていたのはこちらの短歌ですが、『に』の位置が気になります。短歌は素養がないので分かりませんが、破調と言うらしく、第一句が6字の字余りになっています。(本来は5字)

 語感とリズムを重視するなら下の方がしっくり来ます。

 石のまくら

 耳をあてて/聞こえるは

 流される血の/音のなさ、なさ

 

 そして、言葉が生まれます。

"「生いたつにつれ牢獄のかげは、われらのめぐりに増えまさる」"ー「羊をめぐる冒険(上)」P.82