パスタを茹でている間に

村上春樹作品を考察しているブログです。著者の著作一覧はホーム(サイトマップ)をご確認ください。過去の考察記事一覧もホーム(サイトマップ)をご確認ください♪

考察。ダンス・ダンス・ダンス 6番目の白骨

 

 

テーマあるいは出発点

”「とても濃密な影なんだ。死がすぐそばまで迫っているような気がする。腕がすっと伸びてきて、今にも僕の足首をつかみそうな気がするんだ。でも怖くはない。どうしてかというと、それはいつも僕の死じゃないからだ。その手がつかむのはいつも別の誰かの足首なんだ。でも誰かが死んでいくたびに僕の存在が少しずつずれていくような気がする。どうしてだろう?」

(中略)

「それがたぶんあなたの鍵なんじゃないかしら?あなたは死というものを通して世界と繋がっているのよ、きっと」ー下巻P.162 

 

著者の解決あるいはメッセージ

高度資本主義社会に構造的に囚われてしまった現代人は、自身を客観的に捉える事が困難になり、自身の本当の願いに気づくこともできず、気づけたとしてもムリヤリ次のステージに押し上げられてしまっているので、戻ることも出来ない。モラトリアムでピュアな感性を持つ少女の視点を借りて、自分達が作り上げてしまった社会がいかに「馬鹿みたい」であるかを知ることで、自分自身を取り戻さなければならない。

社会や時代に踊らされるのではなく、自ら主体的に自分のステップで踊らなければならない。

 

 

羊男の正体

まず、羊男の正体ですが、私はこんな読み方をしました。

羊男とは、主人公が大人になるために、社会人となるために捨ててしまった感覚や感情を一手に引き受け、管理している墓守のような存在です。

 

”うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこにはなにかがあるんだなって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。僕が年をとるにつれてね。何故だろう?僕にもわからない。たぶんそうする必要があったからだろうね。年をとって、いろんなものをなくしちゃったから、そうする必要が出てきたんだろうな。”ー上巻P.397

 

”「何から隠れているの?」

「何からだろう?戦争から、文明から、法律から、システムから……。羊男的じゃないありとあらゆるものから」”ー下巻P.399

 

羊男は、ヒッピーのようなパッチワークのツギハギを着て、対ロシア戦に備えるために日本に持ち込まれた羊毛を纏い、戦争から逃げるために人間であることを偽っています。そして、主人公が生きていくために不必要と感じた、「かつては自分の一部であったモノ」で、既に自分から切り離したり、死んでいったモノなどを象徴しています。

 

”「あんたはこれまでにいろんな物を失ってきた。(中略)あんたは何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまったんだ。(中略)あんたは自分のためにとっておくべき物までそこに置いてきてしまったんだな。」”ー上巻P.181

 

「音楽の鳴っている間は踊り続けなければならない」と羊男は言いますが、これは社会に踊らされるのではなく、自ら主体的に自分のステップで踊ることもそうですが、「生きている間は生き続けなければならない」という意味も含まれていると感じました。

 

 

高度資本主義社会の構造に囚われる

 

構造主義とはこんな感じです。

構造主義というのは、一言でいってしまえば、次のような考え方のことです。

 私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。”ー『寝ながら学べる構造主義』より

 

 

願いを叶えることのできない構造

五反田くんの願いはとてもはっきりしていて、「仕事も何もかも投げ出して、元妻と二人だけで暮らしたい」なのですが、どうにも無理な状況に追いやられています。一方で、元奥さんの方は、五反田くんと同じく、過度に自己を社会に対して明け渡してしまっているのですが、自我についても親族と強固に共有し、自身の本当の願望も気づけない状況です。

程度の差こそありますが、誰にも思い当たるところがあるのではないでしょうか?子供の頃は社会の不完全さに憤りを感じていても、大人になって社会人になるには、ある程度その歪みに対して、自身を歪ませて合わせなければなりません。その時、どこまで妥協できるのか?社会と折り合いをつける必要があります。

キキの「死の部屋」と六体の白骨

主人公が自ら手放してしまった感覚や感情を、いるかホテルで羊男が管理しているように、キキの「死の部屋」では、主人公の周囲で実際に死んでしまった人たちが、その死によって主人公にもたらしたものが保管されているようです。

 

”メイの死が僕にもたらしたものは古い夢の死と、その喪失感だった。ディック・ノースの死は僕にある種の諦めをもたらした。しかし五反田君の死がもたらしたのは出口のない鉛の箱のような絶望だった。”ー下巻P.343

足りない白骨と「どうにもならない他者」

死体の数が合いませんが、このことから主人公は自身のなかに「ユミヨシさんを守りたい」という動機というか決意みたいなものを自覚します。

 主人公は終始「自分にはどうにもならない他者のこと」と「自分のこと」との境界をもうけて生きていますが、死体の数が足りないことから焦りが生まれて、「自分には他者のことはどうにもならないかもしれないが、どうでも良いわけではない」といった感じに、ユミヨシさんへの想いが爆発します。

 

”他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ”ー上巻P.26

 

どこを引用しようか迷いましたが、主人公のスタンス・スタイル・考え方は作品全体に顕れています。「自分にはどうにもならないこと」と自身を切り離すことで自分を守ろうとしたのですが、結果的にそれは周囲の人たちへ失望を与えていたことを自覚しながら、頑なに自己弁護していました。

かつては自分の中にあったもの

かつては自分の一部としてあったのに、今では失くなってしまって、そんなものがあったかどうかも思い出せないモノなんてあるのでしょうか?思い出せないモノに気付くなんて、なんだか禅問答のようです。

 

”僕も昔は君と同じくらいに熱心にロックを聞いていたんだ。(中略)今でも聴いている。好きな曲もある。でも歌詞を暗記するほどは熱心に聴かない。昔ほどは感動しない。」「どうしてかしら?」「どうしてだろう?」”ー上巻P.233

 

確かに私たちの心は、かつてあった感覚の一部を、既に失ってしまっているようです。