考察・ねじまき鳥クロニクル 「自由」猫と「エンパシー」バット
テーマあるいは出発点
”「綿谷ノボルは、(中略)テレビやメディアを通して、その拡大された力を広く社会に向けることが出来るようになった。そして彼は今その力を使って、不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家として自分のために利用しようとしている。(中略)彼の引きずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にある一番深い暗闇までまっすぐ結びついている。それは多くの人々を結果的に損ない、失わせるものだ」”ー第3部P.459
著者の解決あるいはメッセージ
我々の無意識の一部をムリヤリ引き出し、私的に流用しようとする存在がいる一方で、私たちは夢を見ることが出来る。それは、綿谷ノボルにも阻止できないことだ。私たちは夢を見ている中で夢(希望)を共有し、暴力と血の宿命から逃れ、自由意思を獲得しなければならない。そしてわれわれ大人は、彼らから子供達を守らなければならない。
- 自由意思の象徴としての猫
- 運命を変えるカササギと宿命を巻くねじまき鳥
- ノモンハン事件
- ギターケースの男
- 殴られたら殴り返さなければならない
- シナモンの物語
- 質料因としての通過させられる女性
- 彼らはテレビの言うことをそのまま信じているのだ
- 井戸の上に広がる人々の生活
- 子供たちにより良い世界を残すために
自由意思の象徴としての猫
”でも君はもう子供じゃないんだし、自分の人生を選びなおす権利があるんだよ。猫が飼いたいのなら、猫が飼える人生を自分で選べばいいんだ。”ー第1部P.135
そう言って二人は結婚するのですが、クミコにとっては、自身の呪縛を解いてくれる重要な言葉となりました。
”私自身が私の足を繋ぐ鎖であり、眠り込むことのない厳しい見張りでした。”ー第3部P.500
”実際には外部の力によって自分があらかじめ「決断されていた」ことを思いしらされるのが常だった。”ー第3部P.319
本作を貫く大きなテーマになっている自由意思ですが、私たちは自分達のことを自身で決めていると「思い込まされている」なんて事はないでしょうか?クミコにとって主人公は、「自分の人生は自分で決めてもいいんだよ」というシンプルですがとても大切なことを教えてくれた人でした。
そして、二人で飼い始めた猫は、クミコにとってとても重要な意味を持つのですが、主人公にはそうでもありません。その猫が居なくなってしまうことから物語が始まります。
運命を変えるカササギと宿命を巻くねじまき鳥
まず、運命と宿命の違いですが、運命は人間の意思にかかわりなく、身の上にめぐりくる善悪・吉凶で、また宿命は、前世から定まっている運命とのことです。本作では綿谷ノボルの「暴力と血に宿命的にまみれている」より、その宿命から逃れ、自由意思を獲得することがテーマとなっているようです。
運命を変えるカササギ
オペラ『泥棒かささぎ』ですが要約すると、「屋敷から銀のスプーンが無くなり、主人公である女中に窃盗の容疑がかかり死刑を言い渡されるが、執行の寸前でカササギの巣から銀のスプーンが見つかり、真犯人はカササギだったことが分かり、ヒロイン(女中)は釈放され婚約者と結ばれる」といった内容です。3時間以上のオペラをかなり乱暴に要約してしまいました。
つまり、人間以外の何者かが人間から大切なモノを奪うことによって、連鎖的に悲劇が生じる物語です。しかし、真犯人はカササギだったとしても、それはきっかけに過ぎず、愚行に走るのはいつも人間です。
宿命のネジを巻くねじまき鳥
”そしてねじまき鳥が庭にやって来てそのねじを巻くたびに、世界はますます混迷の度合いを深めていくのだ。”ー第1部P.232
”みんな私をここにこうしてつれてくるために最初から巧妙に綿密にプログラムされて仕組まれてきたことなんじゃないかってね。(中略)まるでどこか遠くからのびてくるものすごく長い手のようなものによって、自分がしっかりと支配されているみたいな気がするのよ”ー第3部P.299
”人々は特別な人間にしか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは(中略)人間の自由意思などというものは無力だった。”ー第3部P.345
主人公は自らをねじまき鳥と名乗りますが、ねじまき鳥に宿命のネジを巻かせるのではなく、自らのネジを自らで巻くことで宿命を断ち切り、自らの運命を切り開こうとする想いだと感じました。
ノモンハン事件
現在我々の住んでいるところとは、かなり遠くかけ離れた場所で、自分とは全く関わりのない人たちが、全く知らない人たちに対して行ったことですが、本当に我々とは無関係でしょうか?
著者が描きたかったことは、時代が違えば、立場が違えば誰もが加害者や被害者に成り得るということではないでしょうか?ちょうどカササギが人間の愚かさを引っ張り出したように、きっかけさえあれば私たちも当事者と同じ体験をしていたのではないでしょうか?それは間違いなく我々と同じ「人類」が行ったことだからです。
当時の出来事と現在を生きる我々とを、全く区別して別物と捉える感覚は、人類が長年に渡って獲得してきた有益なスタンスとも言えますが、そのスタンスは実は都合が良いというだけで、実際に有効に機能しているとは言えないのではないでしょうか。
つまり、過去の歴史と現在の自分とを切り離して捉えるスタンスは、『綿谷ノボル』に対して、無意識を明け渡す隙を与えてしまうことに繋がるからです。
ギターケースの男
ギターケースの男は、自らの手をろうそくの火で焼くパフォーマンスを見せて、観客に共感の力を示します。(しかし、一方で加納クレタは本当の痛みは当人にしかわからないと言っていますが)後日、ギターケースの男を見かけた主人公は男の後を尾けながら、クミコを苦しめる目には見えないナニかに対しての怒りを高めます。
そして、出会い頭に男からバットで殴られ、反射的に蹴り返し、一方的に殴り倒してしまいます。興奮のままバットを家まで持ち帰り、そのあと皮剥ぎボリスの影響を受けたひどい夢を見ます。ギターケースの男がナイフで自らの皮を剥ぎ、その皮が主人公の体を這い上がり、全身を覆うという夢です。
その夢を見た後で、主人公は「逃げられないし、逃げるべきではない」とクレタ島行きを断念し、クミコを待ち続ける決意を固めます。そして、その時持ち帰ったバットが、最終対決の重要なアイテムとなっているのですが、これを一体どのように解釈すればいいのでしょうか?
殴られたら殴り返さなければならない
もし、我々が既に『綿谷ノボル』から何らかの暴力を受けているのであれば、そのような暴力に立ち向かわねばなりません。殴って殴り返してでは、暴力の肯定にもなってしまうので、かなり慎重に考えなければなりません。
仮に、そのバットが象徴するのが暴力ではなく「共感の力」であるならば、その力の継承に「皮剥ぎの夢」というイニシエーションが必要だったとこじつけることも出来ます。
そして、主人公の「逃げるべきではない」との決意は、クレタ島に逃げることだけではなく、「皮剥ぎの夢」とも向き合うことでもあり、『綿谷ノボル』に対する最大の武器が「共感の力」であることが示されます。
シナモンの物語
シナモンの創作と思われる「ねじまき鳥クロニクル」というタイトルの物語が、小説内小説、あるいは物語内物語として提示されます。
”おそらくシナモンは自分という人間の存在理由を真剣に探しているのだ。彼はそれを自分がまだ生まれる以前に遡って探索していたに違いない(中略)謎に包まれた祖父の姿を新たな設定の中に再想像しようとした。(中略)彼にとって重要なことは、彼の祖父がそこで何をしたかではなく、何をしたはずかなのだ。”ー第3部P.345
この物語に対する主人公のメタ考察は、この小説に対する著者の態度の表れだと思います。つまり、事実や真実を重要視するのではなく、「何をしたはずか?」当事者の環境や状況に寄り添い、「自分だったらこうした」ではなく「彼ら(例えば祖父)ならばこうしたはずではないか?」と想いを巡らしてみることです。
著者は執筆にあたって大量の参考文献を読み込んだようですが、そのような断片的な参考文献は、ナツメグが語った物語であり、出来上がった作品が「ねじまき鳥クロニクル」です。
質料因としての通過させられる女性
”まるでどこか遠くからのびてくるものすごく長い手のようなものによって、自分がしっかりと支配されているみたいな気がするのよ。そして私の人生というのはそのような物事を通過させるための、ただの都合のいい通り道に過ぎなかったんじゃないのかって”ー第3部P.299
笠原メイは、遺伝子、老化、世代交代、死について、などなど、度々話題にあげていますが、方向はひとつのところに向かっています。
”今私のまわりにいる人たちは、三年後の自分の居場所がだいたいわかっている人たちです。あるいはわかっていると思っている人たちですね。彼女たちはここで働いてお金をためて、何年かしたらてきとうな相手をみつけて幸せに結婚しようと考えています”ー第3部P.198
一方で加納クレタは紆余曲折はありましたが、綿谷ノボルに汚され、いろんな自我を通過させ、そして井戸の中で『自分はどうしてもこれをやりたい』というモノを手に入れます。
例えば、
アリストテレスによると、
「男女の間に生じる新たな生命としての子供の存在は、形相因としての男性原理と質料因としての女性原理との結合によってもたらされる」
とのことです。なので、形相因(事物をして事物たらしめる本質規定)は男性原理で、自分自身の体内において胎児を養い身体を与える質料因は女性の役割だそうです。つまり、女性は男性原理を通過させるためにあるそうです。
現在は遺伝子レベルでそのような考えは否定されていますが、本当にきちんと否定できているでしょうか?私が見る限り世界中で行われている結婚という慣習は、『男性が女性に対して一方的に不平等な条件での契約を押し付けている』ようにしか見えません。
私たちが「当たり前」と思っていることは本当に「当たり前」なのでしょうか?それは誰かが用意した、例えば綿谷ノボルが用意した「当たり前」ということはないでしょうか?
彼らはテレビの言うことをそのまま信じているのだ
私たちに真実や事実を伝えてくれているテレビですが、確かに真実だし事実なので正しいようです。しかし、そのような事実や真実は私たちを正しい場所へと連れていってくれるのでしょうか?むしろ、私たちに残されているのは袋小路であると再確認するだけです。
私たちも生物である以上、「種の繁栄」が何よりも優先されるべき課題です。しかし大人は未来を先取りして食い潰そうとしています。「まあ、その頃には自分は死んでるだろうし構わないけどな」なんて態度でごまかしますが、生物の幸不幸を決める第一位項目は「子孫に好ましい環境を残せているのか?」です。
未来を食い潰す行為を「仕方がない」と頭では諦めていても、それが無意識では名前をつけることが出来ない不安感となり、我々が幸福を感受できない理由になってはいないでしょうか?
井戸の上に広がる人々の生活
”そこには人々の生活があるはずだった。その淡い秋の光の下で、彼らは町を歩いたり、買い物をしたり、食事の用意をしたり、電車に乗って家に向かったりしている。そしてそれを、とくに考える余地もないごく当たり前のことだと考えているーーあるいは考えもしない。僕がかつてそうしていたのと同じように。彼らは「人々」と呼ばれる漠然とした存在であり、僕もその中の名前のない一人だった”ー第3部P.103
はたして通過させられているのは女性だけなのでしょうか?過去に起こった戦争はどこを通って運ばれているのでしょうか?そして我々はそれをどこへ運ぼうとしているのでしょうか?
子供たちにより良い世界を残すために
”ねじまき鳥さんは私のためではなく、あくまでクミコさんを見つけるために、ばたばたとみっともなく何かを相手にトックミあっているのよね。だから私がわざわざ汗をかくことなんかないのよ。それはわかっているんだけど、それでもやっぱり、ねじまき鳥さんはきっと私のためにも闘っているんだという気がするんだ。”ー第2部P.350
主人公の願いはただ一点「クミコを取り戻す」ことだけです。
その過程で主人公は「共感の力」を手に入れ、過去の戦争を知り、事実や真実を追い求めるのではなく、当事者に共感することで自身の中にある「クミコ像」に近づいていきます。
そのような七転八倒の姿を笠原メイに見せることにより、彼女が自身の中に感じていた「白いぐしゃぐしゃ」から彼女を遠ざけ、彼女に普通の生活に戻りたいという気持ちを思い起こさせます。
人の幸せは人それぞれです。美味しいものを食べたり、好きな人と一緒にいたり、好きなモノに囲まれていたり、健康で、仕事が上手くいっていたり…。
ですが、生物として一番優先すべき最重要課題はなんなのでしょうか?それがもし個人の幸せにとどまらず、誰とも競合せず、世界中の人々と共有できるといった、そんな都合の良いものはこの世にはないのでしょうか?
皆さんにとっての一番の幸せは、何をしているときですか?