パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『野球場』人間の行為を決定する主体

 短編集「回転木馬のデッド・ヒート」より、短編『野球場』を考察します。小説家としてデビューした著者の元には、小説家志望の人たちが勝手に原稿を送りつける事が多かったようです。普段は取り合わないそうですが、今回は著者の好奇心から物語が発展します。

 

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公(語り手)は25歳の銀行員の青年。不思議な体験が多いので小説家に向いているのでは?と考え、自身の体験談を元に小説を書いた。青年はその原稿を村上春樹さんに送り批評を求めた。著者は普段、その手の原稿は断っていたが、小説に添えられていた自筆の手紙がとても礼儀正しく、美しいペン字だったために好奇心から読んでみた。内容は「主人公は25歳の独身のサラリーマンで、恋人と一緒に休暇をとり、シンガポールに観光に来ていた。海岸のレストランで蟹を食べて、吐いて、嘔吐物から虫が出てきたのに、女の子の方はなんともなくスヤスヤ寝ている。」という小説だった。
  2.  著者はその小説に対して、突出して優れた点を見いだすことができず、当たり障りのない手紙を添えて、原稿を送り返した。一週間後、その青年から電話が掛かってきて、「お礼に鰻屋でご馳走したい」と言った。著者は当初、その小説は創作だと思っていたが、青年の実体験であることをその席で知らされた。「変な体験が多いんです」という青年に対して、他の話も聞かせてほしいと著者が言うと、小説家を既に諦めている様子の青年は、大学三年生の時の体験を語りはじめた。
  3.  当時青年は、同じ大学の同じクラブに所属している女性に片想いをしていた。その女性の口ぶりからは恋人がいる様子だったが、私生活については何も知らなかった。青年は徹底的に調べようと決意し、彼女のアパートを突き止め、川を挟んで対岸にある古いアパートに引っ越した。青年の父親がカメラの望遠レンズを所有していたため、青年は実家からカメラセットを借り、彼女の生活を覗き見る毎日が始まった。
  4.  青年のアパートは川を眺めるように北東に向かって建っていて、川の手前には草野球が出来る野球場があった。彼女の部屋は三階にあり遮蔽物は何もなかったので、部屋の明かりがつくと、薄いレースのカーテンがひいてあっても、彼女の生活が手に取るように分かった。青年は覗き見が自身の生活の一部となってしまい、心身のバランスを崩していった。

 

”のぞき見をすることによって、人は分裂的な傾向に陥るんじゃないかと僕は思うんです。(中略)僕の望遠レンズの中で、彼女はふたつに分かれるんです。彼女の体と彼女の行為にです。(中略)じっと見ていると、彼女の体はただ単にそこにあり、彼女の行為はそのフレームの外側からやってくるような気がしてくるんです。」”ーP.159

 

問題の抽出 身体と行為

 なかなか難しい短編を選んでしまいました。年末までに考察を記事にしようと思っていたのですが、年が明けてしまいました。

 「シンガポールの蟹」まで含めて短編全体の持つ統一感を読もうとすると、「男性には理解できない女性の神秘性」のようなものになります。苦しんでいる青年を脇にスヤスヤと眠る女性です。そして、

 

”そういうことは一緒に顔をつきあわせて暮らしているとだんだん馴れてくることなのかもしれません。でもそれが唐突に拡大されたフレームの中にとびこんでくると、それは相当にグロテスクなもんです。”ーP.155

 

 ここからも、「男性には理解できない」が共通のテーマとして浮かび上がります。神話で言うところの「見るなのタブー」です。しかし、今回私は「シンガポールの蟹」は、単にエピソードであると切り捨てて、「身体と行為」が主題であると考察しました。

 

 が、途中で断念しました。社会学や行為の哲学や、最終的には西田幾多郎先生まで参照したのですが、本作とは関係がなく、著者あるいは青年の独自の感覚がメインとなっているようでした。単純に私が気づけなかっただけかもしれません。

 

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全力考察 人間の行為を決定する主体

 人間の行為には大きく分けて二つあります。ひとつは主観的な欲求から生じる行為と、社会的行為です。主観的な行為には「頭が痒いから掻く」といったものも含まれます。一方、社会的行為は自分の存在自体が他者に働きかけるというものです。人間は誰しも社会の中にあっては社会の構成要素となっています。

 本作において「覗き見」は、「女性の部屋」を限定していますので、社会から隔絶された、非社会的な彼女の主観的な欲求に基づく行為に限定されています。

 

 青年が片想いの女性の生活をのぞき見た結果、そこから得られた感想は「彼女の行為はフレームの外側(彼女の部屋の中にあるモノ)からやってくる」というものです。ここら辺は短編内では詳細な描写はないのですが、彼女の行為を決定しているのは彼女の主観的な欲求からではなく、彼女の部屋の本棚に並んだ本や、洋服ダンスの洋服が彼女の行為を決定しているということです。

 

”彼女とはいったい何なのか、”ーP.159

 

 青年の「覗き見」という行為も、手元に「望遠レンズがある」ということが、彼の習慣を変えてしまいました。つまり、道具関係が逆転し、主観的に意図された行為をサポートするために用意した道具やモノが、逆に利用者の行為や行動を決定してしまうということです。

 青年の「覗き見」という行為は、非社会的な背徳行為ですが、彼のアパートも社会とは隔絶されたプライベート空間であるため、彼の主観的な欲求が拡大されてしまっています。

 

”みんなの前で僕の背徳行為が(中略)すっかり暴かれて、みんなに糾弾され蔑まれ、そのまま社会から放逐されてしまうんじゃないかという悪夢から僕は逃れることが出来ませんでした。”ーP.155

 

 人間の欲求を社会から切り離し、自己の主観的欲求に基づいた行為に限定して拡大していくことはとても危険です。

 つまり、望遠レンズによって拡大されたのは女性の姿ではなく、青年の欲求(あるいは本質)です。 

 

本当の僕とはいったい何なんだ”ーP.159

 

まとめ モノに振り回される生き方

 年末の大掃除をしていると、物置や押し入れからいろんなモノが出てきます。高圧洗浄機だったり、スチームクリーナーだったり、壁紙の汚れを落とす専用の洗剤だったり…。こういったものは便利なのですが場所を取り、使っていないときはむしろ邪魔です。

 掃除をする際は家・部屋にモノが少ない方が楽なのですが、モノが多ければ多いほど手間が掛かります。家の大きさによっても煩わしさは増えます。つまり、私たちは多くの時間を自分達の身の回りにあるモノに支配されているということです。

 

 本当は2022年を締め括る最後の記事として考察を始めたのですが、仕事と私事に追われ投稿が出来ませんでした。自由な時間を求めて、便利グッズを買ってはタイパを上げようとするのですが、実は溢れかえるモノによって自分の時間が奪われているのかもしれません。

 

 遅くなりましたが、昨年は大変お世話になりました。去年の2月に始めた当ブログですが、目標にしていた100記事は達成できずに新年を迎えてしまいました。今年はもう少し頑張りたいと思います。

 

 本年もよろしくお願いいたします。 ( ≧∀≦)ノ