パスタを茹でている間に

村上春樹作品を考察しているブログです。著者の著作一覧はホーム(サイトマップ)をご確認ください。過去の考察記事一覧もホーム(サイトマップ)をご確認ください♪

考察・村上春樹著『クリーム』② クレム・ド・ラ・クレム

 村上春樹著、短編集「一人称単数」より『クリーム』を考察します。こちらの短編は個人的にとても面白く感じましたので、記事を二つに分けて考察しています。

 前回の記事では「中心がいくつもあり、外周を持たない円」について考察しました。そして、今回は物語のプロットから物語の統一性を読み解きたいと思います。

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公の「ぼく」は、年下の友人に対して、当時18歳で浪人生時代に体験した不思議な出来事を語っていた。「ぼく」は予備校にも行かず、「微積分計算の原理を追求するよりは、バルザック全集を読破する方が楽しい」から図書館で本ばかり読んでいた。その年の10月に、「ぼく」はある女の子からピアノ演奏会への招待状を受け取った。「ぼく」は16歳までの一時期、ピアノ教室に通っていたが、彼女は同じ教室に通う一学年下の生徒だった。彼女とは連弾でペアを組むこともあったが、「ぼく」がミスをするとあからさまにいやな顔をし、舌打ちさえした。
  2.  「ぼく」は既にピアノを辞めており、教室で会えば挨拶をする程度で特によい印象を持っていなかった彼女から、リサイタルの招待状が届いたことに戸惑った。しかし当時は暇をもて余しており、なぜ自分を招待したのか?好奇心を抑えきれず、出席の意を伝える返信はがきを投函した。招待されたのだから手ぶらはよくないと考え、「ぼく」は花束を購入し、電車とバスを乗り継ぎ案内状にある会場へ向かった。指定された場所は山の上にある財閥系の会社が所有する小ぶりなホールだった。開始時刻の十五分前に到着すると、そこには使われなくなって長い時間が経過したであろうホールがあり、鉄扉には鎖が巻かれ、南京錠がかけられていた。案内状に記されたホールは間違いなくその建物だったが、そこには人影はなく、駐車場には一台の車もなかった。
  3.  なにが起こっているのか?混乱しながら「ぼく」は山を歩いて下ると、こじんまりとした公園を見つけ、ベンチに腰を下ろし気持ちを整理しようと努めた。しばらくすると遠くの方からキリスト教の宣教をする街宣車の声が聞こえてきて、拡声器は「人はみな死にます」と原罪と死後の裁き・救済について語っていた。「ぼくは彼女にかつがれたのかもしれない」と、そこでようやく「ぼく」は自分の状況を理解し、「なぜそこまでに自分は彼女から悪意を受けなくてはならないのか?」誤解やいくつかの可能性を検証したが答えは見つからなかった。「ぼく」は年に数回見舞われる過呼吸のようなパニック状態に陥り、暗闇の中に浮かんでは消えていく奇妙な図形を見守り、ゆっくりと数をかぞえながら呼吸を整えようと努めた。
  4.  ふと気がつくと、「ぼく」の向かいのベンチに老人が腰かけて、「ぼく」の様子を伺っていた。老人は「ぼく」を心配する様子も見せずに、唐突に「中心がいくつもある円や」と口を開いた。真意が分からず聞き返すと、「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」と静かに繰り返した。

”「フランス語に『クレム・ド・ラ・クレム』という表現があるが、知ってるか?」知らないとぼくは言った。フランス語の言葉なんてぼくは何も知らない。「クリームの中のクリーム、とびきり最良のものという意味や。人生でいちばん大事なエッセンス-それが『クレム・ド・ラ・クレム』なんや。わかるか?それ以外はなみんなしょうもないつまらんことばっかりや」”ーP.48

 

問題の抽出 人生でいちばん大事なクリーム 

 こちらの短編では主人公の「ぼく」が年下の友人に対して、18歳の頃に体験した不思議な出来事を語って聞かせる回想の形が使われています。

 著者の作品では短編・長編どちらでも、続編がありそうなのに物語がスパンと終わってしまう「投げっぱなしジャーマン」のような終わりかたが多いです。しかし、本短編集「一人称単数」では不思議な出来事に対して著者自身が振り返る「考察パート」が用意されています。

 

「人生のクリーム」=「人の意識の中にのみ存在する円」

 年下の友人は考察パートの構成上必要になっただけで、メインストーリーには関係がありません。前回の考察記事で、わたしは著者の結論は「人生のクリーム」=「人の意識の中にのみ存在する円」として読みました。「微積分計算の原理」を軽視していた「ぼく」には宇宙のあり様を理解することは出来ない?という意味でしょうか。

 

微分積分学は、宇宙や時間や運動の性質をより正確に理解するのにも有用である。”ーwikiより

 

 ちなみに対比されていたバルザックですが、

 

バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。”ーwikiより

 

 と、ミクロとマクロ(俯瞰)です。

 

キリスト教の宣教車 自己犠牲と自己否定

 短編集「一人称単数」のテーマは「わたしとは誰か?」です。そしてキリスト教で最も重要視されている教義は原罪と救済です。そのときキリストが実践したように自己犠牲が尊ばれ、自己を神と信仰に捧げることで救済が約束されます。

 それが出来ない人間は地獄の業火を免れる術はないそうです。(…。困ります…。)

 

 全体としてエッセイのような随筆形式をとっている本短編なのですが、本当に実話なのか?創作なのか?謎です。実際に不気味な老人がいたら不思議な体験では済まないのですが、創作であるとすると「なぜキリスト教の宣教車が必要になるのか?」著者の意図が隠されています。

 

過呼吸のようなパニック状態

”当時、年に一度か二度くらいだろうか、そういう症状に襲われることがあった。たぶんストレス性の過呼吸みたいなものだったのだろう。なにかしらぼくの心を混乱させることが持ち上がり、その結果、気道が塞がれた状態になり、肺に空気を吸い入れようとしてもうまく出来なくなる。急流に呑まれて溺れかけているときのようなパニック状態に陥り、体が思い通りに動かなくなる”ーP.42~43

 

 著者の作品に度々登場するパニック状態です。私には経験がないのでよく分からないのですが、この描写からも実話か?創作か?が妖しくなります。

 

「中心がいくつもあり外周を持たない円」

 前回の記事では、「中心がいくつもあり、外周を持たない円」について考察しました。

 「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」とは、真球の球面の任意の地点から周囲を見回したときに見えている地平線です。

 また、宇宙の地平線(観測可能な限界曲面)を考えるときに用いられる、宇宙空間が球面上に広がっていると考えるモデルは「どこでも中心であり、端がない」ので、老人の言葉に添っていると思いましたのでご紹介しました。

 しかし、あくまでモデルなので実際の宇宙がどのようになっているのか?は、まだ結論が出ていません。分かっていないこと考える時に用いる例え話です。

 本作でのこのエピソードの意味は、「人間の観測可能範囲の限界と、その限界を越えた向こう側を人間の意識で捉える」ことです。

 

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

 

関連する作品 過呼吸のようなパニック状態

 著者の作品では、幼少期に精神的に不安定な時期を経験してた主人公が何人か登場します。それがそのまま著者の実体験に基づくものなのか?判断はできませんが、いくつか挙げてみます。

 

スプートニクの恋人」 意識の海の底

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

風の歌を聴け」 ジェスチャーゲーム

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

「夜中の汽笛について」 鉄の箱

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

騎士団長殺し」 閉所恐怖症

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

 

全力考察 人生でいちばん大事なエッセンス

 前回の考察では、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」とは、「中心(端)を定めることの出来ない宇宙。宇宙のあらゆる地点が中心であり、観測地点(中心)からの観測可能範囲が外周となっているが、限界を越えた向こう側にも宇宙が存在しているので端(外周)は存在しない。」としました。しかしこれは物語の主題とはなりません。

 人生で最上のエッセンス「クレム・ド・ラ・クレム」とは、人の意識の中にのみ存在する円について考えを巡らすことです。

 

”きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをわかるようにするためにある。それがそのまま人生のクリームになるんや。それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや。”ーP.53

 

 分かっていること・見えていることに機械的即物的に反応するのではなく、分かっていないこと・見えていないことに意識を向けることの重要性を説いているように感じます。

 しかし、見えている・分かっている範囲であっても、「分かっているつもり」である疑いは拭えません。私の考察記事と同じように。 

 

まとめ ベンチに置かれた謎の花束

”ぼくの隣にはセロファンで包まれた赤い小さな花束が置かれていた。その日のぼくの身に起こった一連の奇妙な出来事のささやかな証拠品みたいに。どうしようかと迷ったが結局、花束は四阿のベンチに残していくことにした。そうするのがいちばん正しいだろうという気がして。”ーP.50

 

 これを読んで私は「なんてことをしてくれたんだ!」と思いました。

 ある日の日曜日、あなたが公園に行くとそこのベンチには誰かが置き忘れたであろう赤い花束がポツンと佇んでいます。「なんでこんなところに花束が?」あなたは疑問に思いますが、花束にまつわる物語は決して明らかになることはありません。

 

 案外、この世界はそのように出来ているのかも知れません。

 二人称の文章も面白いですね。