パスタを茹でている間に

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考察・スプートニクの恋人 付け加えられた「にんじん」

 

 

テーマあるいは出発点

人は時に、双眼鏡を使って自身の部屋を覗き見るように、自身の欠陥や空白を拡大し引き延ばし客観視してみなければならない。自身の歪みが発生する予兆として、そこでは何かが燃えだし煙を上げているかもしれない。

 

著者の解決あるいはメッセージ

”しかしそういう歪みは、外見からはなかなか予測しにくいものなんです。あるいはまた、行為そのものを行為として単独で取り上げて、しかるべき罰を与えて、それですぐに治るというものでもありません。根本的な原因を探し出して、それを正していかない限り、あとになってまた違うかたちで問題が出てくることになります。”ーp.286

 

 

山火事監視人

”「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は退屈でさえある孤独を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の、隠されていた力を知るのだ」”ーp.11

 

”どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれが他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないだ。何のために?”ーp.272

この小説が全体としては「孤独」をテーマに書いていることは分かるのですが、だとしても、なぜにドッペルゲンガーや失踪が必要になるのかが分かりません。著者が、この物語を通して読者と共有したかったものは何なのでしょうか?

 

社会の中における「ぼく」

本作における主人公とすみれの関係について、同じ穴の狢のように同類と捉えてしまいそうですが、どちらかというと真逆でまったく別の人間同士がお互いの不足部分を補うような関係性だと私は読みました。

”ぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。”ーp.85

 

"世界のたいていの人は自分の身をフィクションの中に置いている。"ーp.97

主人公は「自分とは何者か?」という問いを保留し、他人や周りの物事との違い・距離感の中に自己の在り方を見ようとします。しかし、すみれと出会って変わります。

 

”彼女はぼくにいろんな質問をしたし、その質問の答えを求めた。答えが帰ってこないと文句を言ったし、その答えが実際に有効でないときには真剣に腹をたてた。(中略)そのようなやり取りを通じて、ぼくはより多くのぼくを彼女に対して(そして同時にぼく自身に対して)露出していくことになった。”ーp.91

 

すみれは主人公が自覚できていない自己の在り方を、質問を通して教えてあげていました。

 

モーツァルトのスミレ

ゲーテの詩だということだったが、そこには救いがなく、教訓すらなかった”ーp.29

すみれは自分の名前の由来となった、モーツァルトのスミレ(カタカナ表記します)を気に入ってないようですが、結構素敵な詩です。

 

”やってきた少女は
スミレに気が付かず
哀れなスミレを踏みつぶしてしまった

スミレは力尽きたが 本望だった
あの人に踏まれて死ねるのだから!
哀れなスミレ
可愛いスミレ”
モーツァルト『スミレ』の最後の方だけ

 

著者はインタビューで、この物語は始め、すみれが見つからないままギリシャから戻ってきて終わる話だったが、後で「にんじん」の話を付け加えたと言っています。実はこのモーツァルトの『スミレ』も最後の2行は元々はゲーテの詩にはなく、モーツァルトが作曲した際に書き加えられたということが知られています。
また、踏みにじられるスミレを「すみれ」としたとき、羊飼いの少女はミュウになるのですが、踏みにじられるスミレを「ぼく」としたとき、羊飼いの少女は「すみれ」となり、

 

”あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだ”ーp.317

 

の、本当の意味するところは分かりませんが、ミュウを起点に同じ境遇にあることを言っているようにも聞こえます。

 

 

「すみれ」が象徴するもの

”人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸福な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。”ーp.270

つまり、「すみれ」が何を象徴するものであるかを示すことが出来れば、この本を読めたことになりそうです。モーツァルトのスミレは「健気さ」あるいは「見返りを求めない純真な想い」になるかと思いますが、すみれをパンジーとした場合は「自由思想」のシンボルとなります。しかし、どちらもいまいちピンときません。

 

無知の知」を鍵に「夢の世界」への扉を開く

”人が「知っている(と思っている)こと」と「知らないこと」をそのまま仲良く同居させようとするときには、それなりに巧妙な対応策が必要とされるのだということだ。その対応策とは(中略)思考することだ。言い換えれば、自分をどこかにしっかりとつなぎ止めておくことだ。そうしなければ、わたしたちはまず間違いなく、ろくでもなく罰当たりな「衝突コース」を進んでいくことになる。”ーp.204

 

そうしたうえで、思考をせずに、それでも衝突を免れる方法は「夢を見続けること」だと、すみれは結論付けます。キリスト教圏では「知恵の実」を食べてしまったことから、人間は知恵の替わりに別のものを失ってしまったようですが、この物語はギリシャなので、「プロメテウスの火」を言っているようです。つまり、楽園を追われる前の、火を手に入れる前の人間に戻ろうとすることを「すみれ」に象徴させているのだとすれば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と同じく「無垢」というキーワードが浮かび上がってきます。また、モーツァルトのスミレの中に、報われない片想いに酔っている乙女心を読むと、「無垢」「純真」というという言葉をすみれに背負わせているとするのは、それほど遠くない読み方だと自分では思っています。

 

どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても

”17歳の時に処女をなくして、それからあとは決して少なくない数の人と寝た。ボーイフレンドもたくさんいたし、そういう雰囲気になれば、よく知らない人と寝たこともあった。でも誰かを愛したことはーー誰かを心から愛したことは一度もなかった。(中略)とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった。自分に何が欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった”ーp.242

 

”ピアノはわたしに、わたしの肉や血をまるごと、供物として要求していた"
ーp.75

 

心理学における夢の役割のひとつとしては、自身を客観視させて本来の自分に立ち返らせるという目的もあるようです。観覧車の出来事が、そのような役割を持つ夢が、現実の形を取ったものであるとするならば、ミュウ自身にミュウの空白を気付かせるためのものだったとも言えます。しかし、夢であれば『検閲』という機能が働き、必要以上に自我が傷つかないように、象徴的な夢に置き換わるのですが、ミュウが見てしまったのは現実(性に奔放な自分)であったために、回復不能なまでに損なわれてしまったのかもしれません。
私も、自身の生活をそのまま鏡に映して客観視する勇気はありませんが、自覚的に生活態度を改めずに、夢にだけ任せてしまってよいものでしょうか?

 

ミュウの鏡

”鏡のどちら側のイメージが、わたしという人間の本当の姿なのか、わたしにはもうそれが判断できなくなってしまっている”ーp.239

かなり恐ろしい一文です。つまり著者はミュウの鏡を支点にして、「あちら側」と「こちら側」を読者もろともひっくり返しています。私たち読書を愛する人たちは、積極的に一人の時間を確保し、読書に耽っています。そのとき、恋人や家族の存在を近くに感じながらだったり、通勤電車に揺られながらだったりもするので、全くの孤独とも違うので、ミュウの観覧車とは状況が違います。しかし、ミュウがピアノに自分自身を捧げてしまったように、私たちが何かに対して自分の何かを捧げてしまっているかどうか?は知る由もありません。

 

対岸のフェルディナンド

フェルディナンドの欲望や夢に、ミュウが取り込まれてしまったと見ることも出来ます。しかし、

"理解しがたい奇形なものとして対岸から双眼鏡で眺めるだけでは、私たちはどこにも行けない"
ー『アンダーグラウンド』より

本書の発表は、『アンダーグラウンド』より後ですので、著者には「あちら側もこちら側」という感覚が既にあったと思います。なので、フェルディナンドは、単にきっかけとして居ただけで、問題の本質はミュウの方に有ると思います。
意識と無意識の区別なく、私たちの内側から外には出ない想いについて、『1Q84 』では、リトル・ピープル→空気さなぎの二段階を踏んで実体化していますが、本書ではドッペルゲンガーとして急に現れます。どちらも分かりやすくは書いていないので、理解せずにただ単に「不気味なものとして飲み込んでほしい」という著者の想いを感じます。

 

脱構築的な錯覚

”ぐっすりと眠りこんでいるあいだに、誰かの手でいったんばらばらの部品に分解されて、それからまた大急ぎで組み立てられたみたいな感じ、”ーp.110

 

"それでふと今気がついたのだけれど、あなたにこうして手紙を書いているうちに、最初に言った「ばらばらになったような変な気持ち」はいくぶん薄らいできたみたいです。"ーp.116

すみれは、自身がバラバラにされてしまう不安感を、主人公が繋ぎ止めていてくれていると思っているようです。そして、主人公にも、同じ危機が訪れるのですが、主人公は、自身の方法により回避しています。

 

”よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並び替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難所に急いで逃げ込むことだった。ぼくは息を思い切り吸い込み、そのまま意識の海の底に沈んだ。(中略)それはぼくが子供の頃から何度となく繰り返し、習熟している行為だった。”ーp.258

 

主人公が山頂から聞こえてくる不思議な音楽に誘われて坂道を登っている最中に起きたことですが、結構さらっと書いてあります。そんな行為に習熟している子供なんているのだろうか?と疑問に感じますが、これこそが主人公の資質というか、特異性を示している箇所です。
自身の溶解に身を委せることが、「夢の中に入る」ことで、自身の「核」のようなものにしがみつくことが、個を保ち続けることです。ですがこの本では、自身の拠り所が不確かであることを描きながらも、それでもその、あやふやな部分に頼らざるをえないと言っているようです。私たちは「知っていること」と「知らないこと」の選り分けすら出来ていないのです。

地続きの異世界

イザナミにしろオルフェウスにしろ、古代の人々の宗教感では、あの世とこの世は地続きになっており、歩いて行けると考えていたようです。しかし、その場合は大抵は地下に潜るイメージになるのですが、すみれは螺旋階段を昇って死んだ母に会いに行く夢を見ます。すみれはその夢を見た後に、ミュウへの愛を爆発させるのですが、ミュウの中に母性を見いだし、母の愛の回収と恋愛感情とを混同したとも見えます。また、ミュウの方も、なぜすみれに関心を持ったのかよく分からないのですが、本来であれば体験できたであろう母としての喜びをすみれから受け取りたいと考えてのことであれば、納得の出来る理由です。

にんじんのしがらみ

"たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてそんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。"ーp.296

 

"その鍵には数多くの人々のしがらみがべっとりと重く染み付いているように感じられた。(中略)ぼくはちょっと迷ったが、思い切って鍵を川の中に落とした。"
ーp.297~298

主人公は、河口がなぜそんなにさびしいのか分からないとにんじんに向かって言っていますが、主人公自身がそうしたように、どうでもいい人々の投げ捨てた「しがらみ」が河口に集まってきているからです。

イノセンスを失った人間

かつて、私の中にあった「無垢」は、いったいどの時点で失われてしまったのでしょうか?いったい何によって奪われてしまったのでしょうか?それとも、自分自身で手放してしまったものなのでしょうか?

そして、暗転。
電源を切り、真っ黒な鏡となったスマホの画面に映るあなたは、いったい誰ですか?