パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『アンダーグラウンド』 フラクタルな社会構造

 『アンダーグラウンド』は、1995年3月20日オウム真理教によって起こされた「地下鉄サリン事件」の被害者に対するインタビューをまとめたノンフィクション作品です。著者はこの作品のあとがきに、カルト宗教と一般市民との間に「フラクタルな社会構造」を捉え、「合わせ鏡的な像を共有していた」としています。
 小説『1Q84』はこちらの「フラクタルな社会構造」を利用し、客観的な視点でカルトを暴くことで、合わせ鏡となった我々の社会の欠点を把握することを主題としています。

 

 

  目次

 

空気さなぎの正体

アンダーグラウンドのあとがき「目じるしのない悪夢」にこんなことが書かれています。  

”あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出して、その代価としての「物語を」受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?” 
ーp.753~754

 

 

例えば、
小説『1Q84』では、青豆がリーダーを殺すのは安楽死とも見えなくもありません。皆さんは安楽死に対してどのような印象を持ってますでしょうか?
ネットから引っ張ってきた情報によると、日本では八割以上の方が尊厳死に対し肯定的で、自身が治る見込みのない苦しい病気に罹患した場合、投薬による安楽死を望む人は70%で、安楽死を合法化することに賛成する人は74%なんて数字もあります。しかし、それだけ多くの人が安楽死に対して肯定的であっても、日本では違法です。
「そういったことは法律家が~、政治家が~、有識者が~、人格者が~、俺たちには自分の生活と仕事があるし、知識もないから、然るべき専門家が~」
なんて、こういった問題をそっくり誰かに丸投げしていないでしょうか?人の生き死に関わってくることなので、これらのシステムが暴走するととてつもない危険を孕んでいます。
ちなみに日本における年間の自殺者数は3万人で、変死者数は15万人、失踪者の10万人の内1万人が行方不明のままだそうです。

 

 

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

フラクタルな社会構造


アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件を扱ったインタビュー集です。

”前にも書いたように、この事件を報道するにあたってのマスメディアの基本姿勢は、〈被害者=無垢なるもの=正義〉という「こちら側」と、〈加害者=汚されたもの=悪〉という「あちら側」を対立させることだった。そして「こちら側」のポジションを前提として固定させ、それをいわば梃子の支点として使い、「あちら側」の行為の論理の歪みを徹底的に細分化させ分析していくことだった。”

しかし、 

”つまりオウム真理教という「ものごと」を純粋な他人事として、理解しがたい奇形なものとして対岸から双眼鏡で眺めるだけでは、私たちはどこにも行けないんじゃないか”

そして、

”私は実はこう思っている。「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していいたのではないかと。(中略)そこに映し出されている二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているようにさえ見える。”

 


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対岸の奇形なもの

例えば、
小中学校でいじめを苦に自殺なんてニュースは、最近では珍しくもありません。大人達は様々な手段を講じて対策しますが、いっこうに効果が上がりません。なぜでしょうか?
当たり前です。「大人達ですら獲得できていない倫理観や道徳観を、子供達に無理矢理押し付けることはできない」からです。
フラクタルは日本語では自己相似形とも言われ、全体の一部を拡大すると全体と同じ形が現れ、逆に縮小しても延々と同じ形が現れるアレです。
つまり、日本全体の抱えている問題は、学校という小集団にも現れ、逆に小集団に現れた問題を分析すると、実は日本全体に巣食っていた問題が露見するといった具合です。
全く関係のない話ではありますが、統計学を用いアンケートを行う際は、母集団に対し標本(サンプル)をどのくらい調べれば、全数調査と同じ精度を保てるか検証します。全体を知るには一部が分かれば十分です。

さて、オウム真理教は「あちら側」でしょうか「こちら側」でしょうか?それは紛れもなく日本の社会で生まれ、日本で事件を起こした集団です。

こういった問題を解決しようとした作品が小説『1Q84』です。

『森の王』型司祭と、『ふくろう』型巫女

『1Q84』は色々な本を引用しないとうまく説明できそうにないので、この記事で事前に引用しておきたいと思います。まず、『みみずくは黄昏に飛び立つ』では、人間が意識を獲得していく経緯を著者が語っているので、要点をまとめます。

①古代の人々には意識がなかった
②無意識の時代の人々は個人ではなく集合的に判断していた
③無意識の時代は司祭による預言を拠り所として生きていた
④集団が大きくなり社会が形成されると、意識的に処理すべき問題が立ち上がった
⑤意識の領域が拡大すると、司祭の力が弱まった
⑥無意識から受け取っていたメッセージ(預言)が、うまく受け取れなくなった
⑦本当に純粋なものは無意識の中にしかない
⑧その純粋なものを人間はもう、うまく見ることが出来ないので、意識に投影する

また、”イデアというのはそれに近いものかもしれないと僕は思う”と言っているのですが、整理してみます。

 

古代人の無意識

『古代の人間は無意識からメッセージを受け取っていたが、社会が意識化されていくなかで、無意識の領域が狭まった。意識を発達させていく中でイデアやメタファーなどの観念を獲得し、形而上的な考察や抽象的思考も行えるようになった。しかし、本当に純粋なものは無意識にあったはずだが、意識の拡大により人間にはもう見れなくなってしまった。なので、その替わりに「イデア」なるものを仮定し、意識的に探求しようとするが、「イデア」は代替品なので限界がある。一方、メタファーも観念ではあるが、「自己と自己の周囲の物事との関連性の中に意味(物語)を見いだす」という点では、人間が意識を拡大していく以前に、動物として生得的に備えていた筈だ』
と、考えているのではないかと思いました。これらの考えは『金枝篇』ではなくて、『神々の沈黙ー意識の誕生と文明の滅亡』という本に影響を受けているようです。

内容的には『騎士団長殺し』の内容に近いのでは無いかと思われてしまうかもしれませんが、『1Q84』では、神占政治を行う『森の王』型司祭と、自然回帰を促す『ふくろう』型巫女が出て来ます。『森の王』とは、

”王が尊敬されるのは、多くの場合ただ司祭として、すなわち人間と神の仲保者としてだけではなくて、彼自身が神であり、人間がとうてい企及することの出来ないところの、そして超自然的で不可視の存在に対し犠牲を供えることによってのみ得られると普通は信じられている祝福を、その民と礼拝者に与える者だとの理由にもとづくものである。”
ー『金枝篇(一)』p.55

という感じに 、民(ピープル)と向かい合っているのが、王です。
一方で、人間がかつて自然の一部であった頃に戻れるよう、理性を押さえ込み、陶酔の中で真理を得られるように導いてくるシャーマンのような存在も、著者は区別して考えているようです。