パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『一人称単数』 「わたし」とは誰か?

 短編集「一人称単数」が文庫化されました。今回は表題作『一人称単数』を考察します。

 一人称単数とは、私・あたし・オレ・自分など自分自身を指し示す言葉です。一人称複数になると、私たち・我々など自分を含めた複数を指し示します。「あなた」が二人称で、三人称は語り手・聞き手以外の話題に挙がった人・物・名詞です。

 世界の言語と比べると、日本語は主語(人称)を省略して話すことが多い特殊な言語です。これは、日本語が「相手の同意を求めながら」コミュニケーションをしていることにも関係があると私は考えています。「私はこう思いますが、あなたもそうですよね?」と、同調圧力を含んでいます。

 諸説あるようですが、「おはようございます」は、「あなたはこんな時間から、もうお仕事を始めているのですか?お早うございますね!」と、相手の仕事熱心な様子を労い・称えながら、自身を含めています。なので、夜勤の人でもあいさつは「お早う」です。

First Person Singular

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公は著者の自画像と思われる男性。クローゼットを点検中に普段着ることのないスーツを見つけ、使われていない洋服達に後ろめたさを感じる。主人公はスーツを着て外出することを思いつくが、鏡の前に立つと自分の経歴を粉飾しているような、罪悪感と倫理的違和感を抱く。
  2.  主人公はバーに入りウォッカギムレットを注文し、読みかけのミステリー小説を読む。しかし、主人公は自身の中身と容れ物とに整合性を欠いている違和感に囚われ、読書に集中できないでいた。カウンターの向かいの壁には大きな鏡があり、主人公はその鏡の中に自身の人生における分岐点を振り返る。今の自分に「自分と社会による選択の集積」を見つけ、別の人生の可能性に自身のアイデンティティを揺さぶられる。
  3.  店は次第に混み始め、カウンターに一人で座っていた50歳前後の女性が、押し流されるように主人公の席の近くまでやって来た。女性は主人公に対しておもむろに「洒落た格好をして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、読書に耽るのは愉しいか?」と口撃を始めた。女性に見覚えのなかった主人公が困惑していると、「あなたは三年前の水辺で私の友人におぞましいことをした。恥を知りなさい。」と続けた。
  4.  全く身に覚えのない主人公は、限界を感じて店を出ると建物の外は見知ったいつもの通りではなくなっていた。

”街路樹にも見覚えはなかった。そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかりと巻き付き、蠢いていた。(中略)そこを歩いている男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。”ーP.250

 

問題の抽出 「恥を知りなさい」

「罪の文化」と「恥(シェイム)の文化」

〈ここから〉

 キリスト教ではお祈りの前に十字を切りますが、まず縦に〈I(私)〉を書いてから、自分を否定するように横に切っています。これは、人々の罪を背負うべくキリストが身代わりになったように、キリスト教においてもっとも尊ばれる「自己犠牲」をよく表していると見聞きしたことがあります。

 キリスト教では罪の意識から教義が始まり、そこからモラルが形成されます。個を滅してひたすらに己を神に捧げ、利己的な考えを否定しながら神の導きに従い、隣人愛や博愛の精神を育みます。

 一方で、八百万の神を崇める混乱した宗教観の日本では、モラルを共有する聖書(バイブル的存在)が無かったために、「恥の文化」によって、道徳観が形成されたとも言われています。

 日本語の人称省略もそうですが、日本人の思考形態は自分以外の他者の介在を前提にしている節が見えます。

〈ここまで〉

 

 〈ここから〉〈ここまで〉で、一人称を省略してみました。これらはあくまで、私の知っていることや、主観に基づいた見解です。皆さんの同意を求めているような、押し付けがましい表現や言説はなかったでしょうか?

 人称を省略することによって、それらがさも一般化されている言説であるかのように装うことができます。

これが私たちが日常的に用いている日本語です。I think.

 

短編集「一人称単数」の意味

 短編集全体としてのコンセプトは「わたしとは誰か?」です。

 「石のまくらに」ではペンネームが、「クリーム」ではキリスト教の原罪が、「謝肉祭(carnaval)」ではカルナヴァル(仮装)が、「品川猿の告白」ではIDの盗難が、そして表題作『一人称単数』では「鏡」が描かれています。

 つまり、個人のアイデンティティを探るためのキーワードを各短編に散りばめておいたあとで、表題作『一人称単数』で読者を自分自身と向き合わせるように、不気味な鏡を提示しています。

 鏡は異世界へと繋がる扉となり、無限に存在したはずの可能性と今の自分とは異なる「わたし」を写し出します。

 

「恥を知りなさい」の意味

 「神は死んだ」とニーチェが宣言したように、世界は「大きな物語の凋落」により、共有すべき価値観を見失いました。そして、分離・分断・分裂をスローガンに、互いに相容れない「島宇宙が乱立」する世界となりました。

 神が死んでしまった今、恥(シェイム)に期待しようにも、顔を持たない匿名の人物達から価値観(恥)を押し付けられます。誰かを不快にさせようとスーツを着てバーで酒を飲みながら本を読んでいるわけでもないのですが、「黒ビール」であることを世界中に謝らなくてはなりません。

 多様化する価値観は尊重されるべきですが、それでもなお共有できる価値観は残るでしょうか?

 

三年前の水辺 自虐的な自己批判

 この「三年前の水辺」には意味なんてありません。著者にとって一番不気味に感じられる状況を創作したに過ぎないので、そこに答えはありません。著者は特殊な状況を物語ることで、読者との鏡の共有を目指しています。描かれているのは鏡です。

 ネットで揶揄されていそうな自画像を自虐的に描いています。

 

”自分の経歴を粉飾して生きる人が感じるであろう罪悪感に似ているかもしれない。(中略)人に隠れて女装をする男たちが感じるのもそれに似た心情かもしれない。(中略)日々の労働によって得られた収入で購入したものだ。後ろ指を刺される要素は何ひとつないはずだ。”ーP.236~237

 

 自分の行動を、性的マイノリティの方達と同列に置き、「誰に迷惑をかけているわけでもない」と肯定的に正当化しますが、後ろめたさと生き辛さを告白しています。 

 「三年前の水辺」に強引に意味を持たせるとするならば、著者の過去の著作物(生き方)になります。戦争や性行為を描くことに躊躇がない著者の作品は人によっては「おぞましい」作品です。

 

関連する作品 恥と罪

R.ベネディクト「菊と刀」 恥の文化と罪の文化

アメリカの文化人類学者 R.ベネディクトが著書「菊と刀」 で著した西洋と日本人の道徳律の違い。他者の内的感情やおもわくと自己の体面とを重視する行動様式によって特徴づけられる文化をいう。彼女はこの「恥の文化」に対立する文化として,内面的な罪意識を重視する行動様式としての「罪の文化」をあげ,後者が西欧文化の典型であるのに対し,前者を日本人特有の文化体系と考える。”ーwikiより

 

 

ニーチェツァラトゥストラかく語りき」 神は死んだ

 ニーチェは「ツァラトゥストラ」にて「神の死」を宣言しました。既存の宗教に対する批判的な意味も含みますが、共有すべき価値観(バイブル)を失ったことも大きいです。

 正しい行いは全て神様が決めてくれていたのですが、「神の死」によって人間は「自分で自分を律する」必要が生じました。この「神の言葉」に頼らず人間自身で律するステップを、ニーチェラクダ・ライオン・幼子と超人思想を展開しました。

 

 

リオタール「ポストモダンの条件」 大きな物語の凋落 

 フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは著書「ポストモダンの条件」の中で「大きな物語」を提唱し、ポストモダンではその「大きな物語」が終焉を迎えると著しました。

 西欧文化の道徳律を規定していたのが聖書(大きな物語)だったのですが、「神の死(大きな物語の凋落)」により、人間は自分達を律する何かを自前で用意する必要が生じました。

 

 

宮台真司「制服少女たちの選択」 社会の島宇宙

 日本の社会学者・宮台真司は複数の著作の中で、「同じ価値観を持つもの同士でコミュニティ(島宇宙)を形成し、他者とは干渉しない」状況を主張しました。現在、日本のみならず世界中で右傾化が進んでいますが、若い人たちは「右や左といった古い思想で大別されたくない」と言い、もはや共有言語も失いました。

 

 

 日本では神の力が弱い(教義らしい教えがない)にも関わらず、自然災害などの困難を目の前にすると、バラバラな主義・趣向が「頑張ろう日本!」と集束します。ハイカルチャーからサブカルまで含めるとかなりカオスな文化を共存させながらも、「困ったときはお互い様」と団結します。

 

全力考察 様々な可能性の帰結である「わたし」

 ある日、あなたの前に見知らぬ人が現れて、その相手は名乗りもせずに、一方的な悪意と敵意を込めて、身に覚えの無いあなたの過去を非難します。

 SNSでは特に珍しくもない日常です。私たちは既にこのような世界の中で「わたし」を保っていかなくてはなりません。

 様々な可能性もあったでしょうが、その内外(自分と社会)から選び抜かれ到達したのが今の「わたし」です。

 ところで、「わたし」とは誰でしょうか?

 

まとめ そして、「あなた」とは誰でしょうか?

 あなたが社会から望まれているあなたの在り方は、あなた自身があなたに望むあなたの在り方でしょうか?

 

 私たちの拠り所は「恥(シェイム)」以外の何かもあるはずです。