パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『品川猿』 猿よりも劣る

 短編集「東京奇譚集」より、『品川猿』を考察します。先日文庫化された短編集「一人称単数」に、「品川猿の告白」という後日譚が収録されていました。そこで今回は、順番に一作目の『品川猿』について考察したいと思います。

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公はホンダの販売店で事務を勤める26歳の女性・安藤みずき。三年前に結婚したが、職場では便宜的に旧姓である「大沢」を名乗っていた。一年ほど前から「自分の名前を忘れてしまう」症状に悩まされるようになり、他人から名前を尋ねられるような場面で、咄嗟に答えられないことが度々あった。みずきは脳や心因的な病気を心配し総合病院を受診するが、対応した医師はあまり真剣には取り合ってくれなかった。しかしある日、品川区役所で「心の悩み相談室」が催されていることを知り、カウンセラーの坂木哲子という40代後半の女性を頼る。
  2.  カウンセラーの坂木哲子は、夫が区役所の土木課の課長だったことで開設できたと、フレンドリーに自己紹介した。みずきはカウンセラーに自身の生い立ちや家族構成を説明した後で、「名前に関連するエピソード」を尋ねられ、学生時代に松中優子という後輩から名札を預かってほしいと頼まれたことを思い出す。彼女はみずきと同じ寮で生活する美人でお金持ちの優等生だったが、「葬儀で実家に戻るため名札を預かってほしい」と寮生の帰寮・不在を示す名札をみずきに託した。「猿にとられたりしないように」と意味不明の言葉を残し寮を出たが、実は葬式は嘘で、彼女はどこかの森で手首を切り、遺書も残さずに自殺をしていた。
  3.  興味を覚えたカウンセラーが詳しく聞くと、みずきは松永優子に名札を託された時に、「今まで誰かに嫉妬を覚えたことはあるか?」と尋ねられ、自分には嫉妬心は全く無いと答えていた。そして、寮生の自殺という混乱の中で名札を戻すタイミングを見失い、松永優子の名札を今でも自分が持っていると告白した。その日のカウンセリングを終え、松永優子の名札が気になったみずきは、家に帰ると押し入れから段ボールを取りだし、ガムテープの封を剥がした。しかし、封筒に入れた筈の彼女の名札は、みずき自身の名札と共に無くなっていた。
  4.  相談と経過報告は回数を重ね、10回目のカウンセリングで、坂木哲子は「名前を盗む猿を品川区の下水道で捕まえた」とみずきに報告し、区役所の別室に案内した。部屋に入ると坂木哲子の夫(土木課長)が待っていて、事の次第を説明した。「家内には特殊な能力が備わっている。」そして、言葉をしゃべる猿を脅し、説明と謝罪を促した。猿が語るには、「思慕する女性の名前を盗む悪癖があり、松永の名札を手に入れようと試みたが、既に無くなっていた。手を尽くし名札の所在を掴んだが、一緒に大沢みずきの名札も見つけ盗んでしまった」とのことだった。そして、人の名前を盗んだことを謝りながらも、名前に付帯するネガティブな要素も引き受けていると弁解し、みずきの暗部を指摘した。

”あなたのお母さんは、あなたのことを愛してはいません。(中略)あなたは小さい頃から、誰からもじゅうぶん愛されることがありませんでした。(中略)でもあなたはそのことを意図的にわかるまいとしていた。(中略)あなたは誰かを真剣に、無条件で心から愛することができなくなってしまった。”ーP.240~241

 

問題の抽出 人の名前を盗む猿

 人の名前を盗む猿が登場し、しかもその猿が喋りだしますので未読のかたはビックリするかもしれません。原文を読んでいても途中から怪しい展開になりますので、理解が追い付きません。

 短編ではありますが、かなりボリュームがあるお話です。猿がその後、どのような処分を受けたのか?エンディングは省略します。

 

名前を盗む猿 

 思慕する人の名札(名前)を盗むことで、自分の心を満たそうとする迷惑な猿です。しかし、彼が言うには、自分が松永優子の名前を盗んでいれば、彼女の抱える暗部の一部を引き剥がすことができたので、自殺を回避できたかもしれないと語ります。

 みずきの名札にも魅力を感じた猿ですが、自身の感情に蓋をして、平静を装って生きる人の名前に対して、異常な執着を見せています。

英語圏におけるmonkeyのイメージ

 英語圏における猿のイメージは、小賢しい・イタズラ小僧・小バカにする・インチキなどといったフレーズに使われます。日本語でも「猿まね」がありますが、だいたい同じイメージで使われているようです。人間に似ていても思慮を欠き、劣った存在として蔑まれています。

 

松永優子を巣食う暗部 嫉妬心

 そもそも松永優子とみずきには接点がなく、名札の用途を考えると不在を示すために裏返しに掛けておく必要がありました。しかし、「猿に名札を盗られる」ことを恐れた彼女はみずきに頼んで名札を預かってもらいます。(当時のみずきは何かの冗談だと聞き流します。)

 松永の自殺の原因は作中では明らかにされていませんが、「嫉妬心」に苛まれていたことが推察できます。みずきの部屋を訪ねた松永はほとんど初対面の先輩に対して「これまでに嫉妬の感情を経験したことはありますか?」と唐突に尋ねます。

 松永の言動は尋常ではないのですが、みずきの答えも「誰かをうらやむことは特にない」と普通ではありません。ここら辺が猿の関心を惹いてしまった理由だと考えられます。

 また、松永にとって嫉妬は「小さな地獄を抱え込んでいるようなもの」とも語っていますので、美人でお金持ちの優等生も人知れず苦しんでいたようです。

 

安藤(大沢)みずきの暗部 愛を知らないので嫉妬もできない

 みずきは相談室を訪れたときに、自分の生い立ちや生活についてカウンセラーに語りながら改めて「面白味のない人生」と振り返ります。しかし、猿からは、実は母親からネグレクトに近い扱いを受けていたことを言い当てられます。

 しかも、母親だけでなく、みずきは姉からも嫌われており、中高一貫校学生寮へ厄介払いされ、父親はそのことに気づいていながらも性格の弱さからみずきを守れなかったと猿から聞かされます。

 そして猿は、みずきはそのことに気付いていながら、感情に蓋をして負の感情を押し殺して生きてきたと、暗部を引き出します。

 ポイントとなるのは、みずきがカウンセラーや人からコンプレックスを指摘されるのではなく、人間よりも劣り蔑まれている存在である猿から生き方を諭されている皮肉です。

 

カウンセラー 坂木哲子

 坂木哲子はカウンセラーとしての正式な資格を持っていて、人柄としても、「面倒見のいい気さくな近所のおばさん」と、みずきに評されています。

 しかし、問題の解決方法がサイキックというかスピリチュアルな展開を見せ、なぜか「名前を盗む猿」の存在に気付き、「下水道に潜伏」している猿を、夫(土木課長)に探させています。

 夫婦共にこういった状況には慣れているようで、戸惑うみずきを尻目に、「しゃべる猿」にも毅然と対応しています。ここら辺はかなりユーモラスに描かれています。

 みずきのコンプレックスが猿によって明らかになったのですが、みずきの抱えている問題は未だに解決していません。しかし、

 

”「さっきの猿があなたに言ったことについて、とくに私と話をする必要はないわね?」

「はい。そのことについては自分でなんとかやっていけると思います。それは、私が自分でまず考えなくちゃならないことだと思うんです。」”ーP.245

 

と、カウンセラーとしての役目を終えています。この解決のしかたが、著者の主題あるいはメッセージとなると思います。

  

関連する作品 自分から切り離された自分(の一部)

 村上春樹作品では「自分から切り離された自分(の一部)」と言うモチーフが数多く登場します。本作では「自分の問題を取り戻す」ことで、自分自身を取り戻すことがメインテーマです。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

 主人公の分身として「影」が登場します。

 

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羊をめぐる冒険

 主人公が大人になるために生け贄に捧げた羊(感性・感覚)が描かれています。生け贄のイニシエーションです。

 

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1Q84

 国家・宗教・集団に対して自身の権利・自由・人格を献上している様子が描かれています。

 

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 著者は「嫉妬」と言う言葉について、通常の使い方とは異なる感覚を示しています。

 

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全力考察 自分の問題を取り戻す

 「それは俺の仕事じゃないだろ!そっちで解決してから報告だけ持ってこいよ!」なんて、どこの会社でもありそうです。人類は専門性を高め分業化することで、現在の発展を手に入れました。

 「金払ってるんだから、医者ならちゃんと俺の病気を治せよ!」なんて、自身の不摂生は棚に上げています。不具合が生じれば「誰にクレームを言えばいいのか?」探してしまいます。

 

 おそらく人間以外の他の生物は、自身の問題は自身で解決しています。群れを形成する動物であっても、最終的には自己責任です。(蜂や蟻のような社会性昆虫は集団の維持が最重要課題なので、自己犠牲的な行動も見られます。)

 

 自分の問題を把握できていない人間は猿よりも劣ります。

 

まとめ 夫婦別姓に関する問題

 考察とはあまり関係がないのですが、本作では夫婦別姓が話題として挙げられています。

 主人公「安藤みずき」は旧姓が「大沢」なのですが、夫である「安藤隆史」と結婚することで名字が変わっています。しかし、結婚後も職場では「大沢」を名乗り、同僚からも「大沢さん」や「みずきちゃん」だったそうです。結婚後に女性だけが名字を変えると言うのは不平等にも思います。

 そこで、ミドルネームのように、旧姓を含めた形で本名を改名し、戸籍に登録できる仕組みを作ってみたらいかがでしょうか?

 

 安藤・大沢・みずき

 大沢・安藤・みずき

 安藤・オオサワ・みずき

 安藤・Oosawa・みずき

 

 このとき、「日常生活ではどちらかの名字を省略できる」としておけば、「安藤(大沢)みずき」も「(安藤)大沢みずき」も本人となります。また、戸籍に登録されている本名を本人認証(自分が自分であることの証明)に利用することも可能になります。パスワードほどの効果はありませんが、ミドルネームの組み合わせにより、多数のバリエーションを生むことができます。

 

 また、夫婦に子供が生まれたときに、仮に「安藤(大沢)太郎」とした場合、夫婦が離婚し親権を母親が獲得したとしても、子供がどちらの名字を名乗っても、本人であり続けることができます。

 一番に優先されるべきは子供の権利ですが、家族の構成が変わったとしても親子の血縁関係は変わりません。大人の事情により子供たちに不利益が生じる事態は避けるべきです。

 本名をそのまま本人認証に使えるシステムを構築すれば、夫側にも結婚を機に改名する利点が生じます。 

 

 本作とはあまり関係のない話題ではありますが、色々と考えさせられる短編でした。