パスタを茹でている間に

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

テーマあるいは出発点

人間は社会的な生き物なので、社会に則して自己を変化させながら生きていかなければならない。その時、自己の変化に合わせて自我も影響を受けているが、個としての純粋な願望を叶えることの出来ない自我を慰める為に、心の本来的な有り様の一部を生け贄にしてはいないだろうか?例えばそれを、古い夢(自分の中にかつてあった個としての純粋な希望・願望)として。

 

 

 

著者の解決あるいはメッセージ

”私はたしかにある時点から私自身の人生や生き方をねじまげるようにして生きてきた。(中略)しかし私はこのねじまがったままの人生を置いて消滅してしまいたくはなかった。私にはそれを最後まで見届ける義務があるのだ。そうしなければ私は私自身に対する公正さを見失ってしまうことになる。”ー下巻P.332

”僕は自分勝手に作り出した人々や世界をあとに放り出して行ってしまうわけにはいかないんだ。(中略)僕は自分でやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ "ー下巻P.345

 

自己に対する社会の側からの要求があったとしても、自分の事は自分で決めなければならない。

 

 

世界の終り 夢読みの仕事

 「世界の終り」では、まず、街に入るために自我の母体である自身の影を自身から切り離し、夢読みになる必要があります。そして、自我を失った街の住人の中で、日々、泡のように涌き出てくる心の名残は一角獣が吸収し、壁の外へと運び出されます。

 やがて一角獣は、そんな街の住人の自我を体の中に蓄え込み、その重さに耐えきれず死んでしまいます。そして一角獣の死後、門番がその頭を切り落とします。

 その頭骨に刻み込まれた自我を〈古い夢〉と読み替えることで、大気に放出するのが、夢読みの仕事です。

「世界の終わり」は主人公の頭の中で起きている物語(全体としてのカオスとしての意識を要約した核)として描かれていますが、心を失おうとしているのは果たして街の住人だけでしょうか?

 

ハードボイルドで限定的なビジョン(未来像・理想像)

著者がこの「限定」という言葉にどんな意味を込めたかによって、読み方が変わってしまいます。

”「(略)とても不幸な人生を総体として祝福することは出来るだろうかってね。」

「だから人生を限定するの?」

「かもしれない」と私は言った。”ー下巻P.326

”おそらくその壁は私の限定された人生を暗示しているのに違いない、と私は思った。”ー下巻P.278

 

「限定」を英語にするといくつか候補があります。

  1. limit    限定、限界、限度、極限
  2. restriction 限定、制限、制約、禁止、束縛
  3. exclusive  限定、排他的

普通に考えると、主人公は自身の人生を限定(limit)して捉えているようにも見えますが、これを「排他的」とすると、自身の人生を個人で完結し、他者との共有をしない生き方になります。英語訳ではどうなっているか見てみたいです。(それでもやはりlimitedだとは思いますが)

”入り口と出口がついている犬小屋のようなものさ”ー下巻P.303

”二人で同じベッドで寝ていても目を閉じるのは一人だ”ー下巻P.325

結婚生活をそのように捉えています。このような考え方は結婚生活に限らず、人生感全体に及んでいるようです。

 

失いつづける人生がー私自身だからだ

”どれだけの人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。

私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることが出来るかもしれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。(中略)しかし、(中略)必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。”ー下巻P.234

しかし最終的に主人公は、自身の人生が終わる間際になって、「公正さ」をキーワードに、自身の不幸な人生を祝福できない代わりに、自分と関わった人たちを祝福し始めます。そして、ボブ・ディランの『激しい雨』をBGMに、主人公を「公正な雨」が包み込むというエンディングになっています。

 

ボブ・ディランの『激しい雨』

ちなみにボブ・ディランの『A Hard Rain’s A-Gonna Fall』ですが、ハードをheard(聞こえる)、レインをreign(統治)、フォールをfall(崩壊)と聞くこともできるようです。歌詞の内容は世界中にある様々な不幸をかき集めて一曲に纏めあげた感じです。そして、

”And I'll tell and speak it and think it and breathe it”

全ての不幸に息吹を与えよう(歌おう)と終わる曲なのですが、全体を通してそのような様々な不幸の上に、激しい雨が公平に降り続いている様子を歌っています。

 

なので、本作と絡めて読もうとするのであれば、幸も不幸も関係なく公平に降る雨のように、主人公は、

「自分の祝福が自分以外の周りの人たちに公正に降り注ぐように願える心境になれた」

としてみると、自らの手で、あるいは、社会から「限定」されてしまった自分を解放できたとも読むことができます。 

 


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ここまでが、考察です。以下は私の個人的な雑感です。

積極的に心を失くす人間

例えば、

 行きつけの飲食店では常連扱いされたいが、コンビニやショップでは、むしろ事務的に機械的に処理(接客)された方が、かえって気が楽という感覚はありませんでしょうか?特に急いでいるときなんかは「天気の話なんかどうでもいいよ…」とか。

 会社においても「本当はこうするべきだろうけど、いちいち伺いをたてるのも面倒だし、皆やってることだし、本当は数分で終わるはずだけど、どうせまた後で誰かにひっくり返されるのに、残業までして今やる仕事なのか…。」なんて。

 社会の中で「如何にストレスを溜め込まずにやり過ごすか?」は、自ら積極的に歯車のひとつとなり、右からやってくるモノが何であるかを気に留めず、そのまま左へ受け流すことが極意です。

 ニュースで伝えられる、戦争や紛争や事件や事故も、自分から遠い場所で起きていることであれば構いません。それがどれだけ凄惨な出来事であっても、それらと自分とを隔てる壁がしっかりと機能している分にはむしろ満足です。

 また、分業により、肉や魚が食卓に並べられるときにもわざわざ屠殺場の風景を思い浮かべず、ただただ、美味しくいただけばいいのですが、それらがかつては生きていて、そして誰かが〆ていることは、私の心ではなく誰かの心だけで処理して欲しい問題です。なにしろ私は金を払っている消費者様なのですから。

 このように人間は自らの心を失わせた方が、この世界を生きやすいことに気がつきました。

人間が娯楽を求める理由

ゲーテ曰く、

”人間は、何を滑稽だ(面白い)と思うかということによって、何より

もよくその性格を示す。”

一方で、心を失った人間は「自分の中にも心がある」ということを確認するために、娯楽(心が動く事)を求めます。

例えば、

小説や映画、物語では起承転結がありますが、これには、

  • 『起』日常があり
  • 『承』日常に忍び寄る不吉な影があり
  • 『転』問題が顕在化し
  • 『結』問題を解決し新たな日常を取り戻す。

といった、形があります。

また、音楽についても、

なんてコード進行もあります。どちらも必ず同じ形にはならずにバリエーションはありますが…。

 どちらにせよ、人間は好んで 不安定(緊張)→安定(解放) という状態を擬似的に体験し、自分の心が確かに動いていることを確認したいようです。

 音楽ひとつ取ってみても趣向は様々ですが、実生活に安定を求めるほど、娯楽には心を強く動かすものに引かれてしまうのではないでしょうか?

 実生活にスリルを求めるのはリスクがあります。戦争をモチーフとした作品が売れるのは平和な国だけで、実際に銃弾が飛び交う紛争地域では、そもそも娯楽よりも平和な日常を取り戻すことで頭がいっぱいです。

 最終的には安定が一番良いのですが、安定も長く続くと退屈だと、不満を洩らします。食卓に並んだ肉や魚は生きることに精一杯だったはずですが、人間は繊細なので、ただ生きているだけではダメなようです。

 

私たちの世界の延長線上にある物語

さて、私たちの世界の延長線上にある物語は、「世界の終り」でしょうか?それとも、「ハードボイルド・ワンダーランド」でしょうか?自我の母体たる影を自身から切り離してしまった主人公は、一体どのような物語で自身の心が動いている(機能不全に陥ること無く、正常な状態を保っている)ことを確認すれば良いのでしょうか?

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