この作品は二通りの読み方が出来ましたので、二つの考察を掲げてみます。
ひとつは、純粋に「恋愛小説」として読み、ひとつは「ビルドゥングスロマン」として読みます。
それぞれを「赤」ノルウェイの森(恋愛小説)と、「緑」ノルウェーの森(教養小説)としてみました。
テーマあるいは出発点
自分が大人(二十歳)になるときに、自分自身の中にあったが自分自身で殺してしまった感覚・感情は何だったろう?大人になるために支払うべき代価・代償とはなんだろう?
”おいキズキ、と僕は思った。(中略)俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。(中略)そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。”ー下巻P.183
著者の解決あるいはメッセージ
大人になるために支払うべき代価・代償とは?
- キズキ 漠然とした自己肯定感
- 直子 死の欲動・破壊衝動
- ハツミ 少年期の憧憬
目次
- 100%恋愛小説
- 直子(デストルドー) VS 緑(リビドー)
- なぜ キズキ は自殺したのか?
- なぜ 直子 は自殺したのか?
- なぜ ハツミ は自殺したのか?
- 下劣な連中がつくる下劣な社会
- 永沢さん の歪み
- 緑 のリビドー
- レイコさん の気持ち悪いエピソード
- ”死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”
- もうひとつの読み方
100%恋愛小説
「100%恋愛小説」と著者自身のコピーで発売された本書ですが、おそらくその通りなのでしょう。しかし、私のようなひねくれたモノの見方をする人間は、著者の想いがどうあれ、恋愛小説を教養小説として読み替えてしまうこともできます。そんな例を示してみたいと思います。
作中、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』が出てきましたが、こちらはビルドゥングスロマンです。
直子(デストルドー) VS 緑(リビドー)
三角関係に揺れる主人公を読むことができますが、デストルドー(死の衝動)とリビドー(性衝動)の間に揺れているようにも読むことができます。以下はそんなこじつけです。
自殺する登場人物の死の理由を、著者のテーマ(構造上の理由)から考えています。つまり、著者が各キャラクターに何を象徴させているのか?を読むことで、著者が大人になるために自身の中で象徴的に殺した(失った)ものを考察します。
なぜ キズキ は自殺したのか?
まず、キズキは漠然とした自己肯定感を象徴しています。
”だから彼と話をしていると、僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった”ー上巻P.44
主人公はキズキをそんな風に回想しているのですが、皆さんも高校生ぐらいの時に「たぶんこのままずっと楽しい日常がずっと続いていくんだろうな。人生ちょろいな」なんて、思ってみたことはなかったでしょうか?しかし、大人になってみて「こんなはずではなかった…」と現実の辛さを味わうこととなります。
キズキの自殺の原因が不明になっているのは、もし原因が分かってしまうと主人公と直子がその悲しみを共有し、乗り越えてしまう可能性が出てきてしまうため(構想上の理由)です。
”おいキズキ、と僕は思った。(中略)俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。(中略)そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。”ー下巻P.183
なぜ 直子 は自殺したのか?
直子はデストルドー(自殺願望)を象徴しています。直子が避けがたく死に引っ張られる存在にするためにキズキの自殺の理由を不明にしています。(また、直子のお姉さんの自殺を直子に発見させています)主人公は自身の中にあるそんなデストルドーを自身から切り離すことで大人になります。
物語のなかでは、主人公はなんとか直子に立ち直ってもらい、彼女と共にこの先も歩みたいと願うのですが、そんなわけにはいきません。(もちろんこれも、著者の構想上の理由です)
”成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。”ー上巻P.236
注意)厳密にはデストルドーは自殺願望ではありません。また、リビドーの対義語はタナトス(死の欲動)でデストルドーではありません。私の中では、リビドー(性衝動)は暴走気味になる傾向があるので、アンチリビドーとして「平穏を求める心」がリビドーにブレーキをかける存在として機能していて、たまにアンチリビドーが暴走して、究極の平穏である「死」を求める、ぐらいに思っています。
なぜ ハツミ は自殺したのか?
ハツミは少年期の憧憬を象徴しています。
”それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであった。(中略)ハツミさんが揺り動かしたのは僕のなかに長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ”ー下巻P.119
登場人物がバタバタと死んでいく物語ですが、その一人であるハツミさん(憧憬)の死が揺り動かすのが〈僕自身の一部〉としているのですが、ここをどう読むかによって、恋愛小説ではなくなってしまいます。〈〉による強調は著者の表現でテクスト通りです。
つまり、各登場人物の死は〈僕自身の一部〉の喪失です。
下劣な連中がつくる下劣な社会
”「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわっているよ」”ー上巻P.258
”そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方がなかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ”ー上巻P.90
主人公はこんな下劣な社会の中で大人になっていくことに抵抗があります。
永沢さん の歪み
一方で、下劣な社会に合わせるように自分をねじまげ、それでいて個を保ったままという力強い永沢さんも登場します。この人は主人公とも気が合うのですが、その曲芸的な生き方は真似をしようとも思いません。主人公も永沢さんと一緒に複数の女性と関係を持ちますが、生理現象を処理しているだけなので、むしろ心は渇いてしまいます。
皆があくせく働いて社会の荒波に揉まれている上を、悠々とクルーザーで進んでいくような人物です。主人公は下劣な社会の一員にはなりたくありませんが、かといって、永沢さんのようにもなれません。
緑 のリビドー
キズキや直子と一緒に楽しい青春を過ごした主人公に比べると、緑の高校生活は壮絶で、それは大学生になっても続いています。しかし、緑はかなり特殊なユーモアのセンスで乗り越えています。
主人公は、この緑のリビドー(生の本能の原動力・あらゆる衝動の源泉となる心的エネルギー)の中に、この世界を生きていく希望を見いだします。緑は死や貧乏や看護や、社会のインチキやら、生乾きのブラジャーやら、いろんな困難を、そのチャーミングな性欲で克服していきます。
注意)この緑があまりにも「リビドー」であったために、誤用と誤解を恐れずに「デストルドー」と対立させていますが、私の伝えやすさを優先しただけの話です。本来の意味はフロイト先生から学んで下さい。
レイコさん の気持ち悪いエピソード
自身の内側に自己破壊衝動を抱えたまま、それでも生きていける人です。この小説は多くの人に読まれ賛否両論もありますが、自身の内側にこの自己破壊衝動を認めることができない幸運な人にとっては、不快極まりない物語だと思います。最後に何で主人公と寝たのか?恋愛小説として読むと全く理解できませんが、自身の中の直子の存在を共有できるのがレイコさんだからだと私は思います。
”あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。(中略)でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。(中略)もっと成長して大人になりなさい。”ーP.252
こんな風に、大人になるための物語、と読むことができます。サイコパスな生徒によってレズビアンの可能性を示されてしまったレイコさんを癒すためのリハビリとも捉えることができます。その時、癒されているのはレイコさんだけではありません。
そのような、一見不要とも思えるような感覚を自身から切り離すのではなく、なだめる方法を学ぶ儀式と読むこともできます。(それがセックスである必要性は分かりませんが)
この作品を名作たらしめる理由はこのような「飲み込むことのできない引っ掛かり」があるからだと私は思います。
(「葬儀の後は性欲が高まる」という話を聞いたことがあるのですが、皆さんの身近にもそんな方はいらっしゃいますでしょうか?)
”死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”
要はリビドーとアンチリビドーのバランスです。
自転車を力いっぱい漕げば、スピードが出て爽快だし、目的地までの時間が短縮されます。しかし、スピード走行は危険です。時に止まって安全確認しなければなりません。止まったまま動かないのが一番安全なのですが、それでは何処にも行けません。
"ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわっているよ」”ー上巻P.258
止まっていても、危険の方が向こう側からやって来てしまうこともありそうです。
もうひとつの読み方
純粋に恋愛小説として読む
私としてはこの小説は、恋愛小説のストーリーをまとった教養小説だと思っています。ですが、純粋に恋愛小説として読んだ場合、主題と考察も別モノになります。
while-boiling-pasta.hatenablog.com
元となった短編「螢」との関係性
著者の代表作となった長編『ノルウェイの森』ですが、ストーリーの関連性を持つ「螢」という短編があります。
"「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」"
という名言もこの短編にあります。
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