考察・村上春樹著『偶然の旅人』 昼間の打ち上げ花火は見えない
短編集「東京奇譚集」より、『偶然の旅人』を考察します。本作ではとても珍しく、著者本人が冒頭で登場し、「フィクションではなく、実際に本人から聞いた話だ」と断りを入れてから、話が進められます。
村上春樹作品には、中性的なキャラクターが良く登場します。本作は調律師をしているゲイの男性のお話です。
四段プロット あらすじの代わりに
- 主人公はピアノの調律師をしている41歳のゲイ。彼は大学生のときに同学年の女性と付き合っていたが、性行為が重荷になっていった。当時は本人も自覚がなかったが、ある出来事から自分がホモセクシャルであることを発見し、ガールフレンドにカミングアウトした。
- 一週間後には周りのほとんどの人が、彼がゲイであることを知り、その話は彼の家族にまで伝わった。そのとき、彼の二歳年上の姉が結婚話を進めている最中だったので、危うく破談になりかけた。なんとか結婚には至ったものの、とても仲が良かった姉と仲違いしてしまう。
- 以来、十年以上もの間、家族とは疎遠になった。ある日彼はカフェで本を読んでいるとき、偶然彼と同じ本を読んでいた女性に声をかけられ、親しくなる。彼は彼女の耳たぶにほくろを見つけ、偶然似たような場所にほくろを付けていた姉のことを思い出す。
- 彼は思い切って姉に電話をすると、偶然にも姉が翌日に乳ガンの手術を控えてるタイミングだった。彼らは直接会って、素直に思いを語り仲直りをした。そして今では姉の子供にピアノを教えたりもすると、著者に語る。
”「きっかけが何よりも大事だったんです(中略)偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって?(中略)でも大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされています」” ーP.47
問題の抽出 比喩表現のメタファーと概念メタファー
村上春樹といえばメタファーなのですが、メタファーの例として良くあげられるのがこんなのです。
君は僕の太陽だ。(メタファー・暗喩)
君は僕にとって太陽のような存在だ。(直喩)
なので、著者が不思議なキャラクターを登場させると、「○○のメタファー」と誤解されてしまいます。(それらのほとんどは象徴です。)
著者がメタファーと言っているのは、比喩表現としてのメタファーではなくて、だいたいが「メタファーを介した認識」のことを言っています。
”でもメタファーをとおして、僕とあなたのあいだにあるものをずいぶん省略していくことができます”ー『海辺のカフカ 下巻』P.143
どちらも表現者の比喩表現ではなくて、「受けとり方」を言っています。
本作で問題となっているのは、「私たちの身の周りにメッセージは溢れているが、大抵は無視されている(受け取っていない)」ということです。
関連する作品
要するに、「受けとり方」の問題です。
『スプートニクの恋人』”理解とは誤解の総体にすぎない”
『騎士団長殺し』”買い手責任”
『色彩のない多崎つくると(以下略)』 「知覚の扉」
「知覚の扉」でも「私たちの身の周りにはメッセージが溢れているが、必要なものだけを受け取っている」という内容です。
『鏡』 オカルトもサイキックも主観
『羊をめぐる冒険』 特別な耳
全力考察
例えば、
「男はみんな狼なのよ」というメタファーがあります。そこから発展して、肉食系女子や草食系男子が何を意味するのか理解することができます。
このように、メタファーは文化や社会に共有されているので、表現としてだけでなく言語にも影響を与えます。そして当然思考にも影響します。
日本以外の文化でも「草食系男子」の意味が通用するのか?分かりませんが、比喩表現だけでなく、私たちは日常的にメタファーで自身や世界を認識しているとも言われています。
「襟を正して、背伸びすることなく、一歩ずつ前に進みたい」
このような文章のもつ意味が伝わるのは、私たちが特定の文化圏で日常的にメタファーを共有し、思考しているからです。
つまり、私たちは個々に受け取っているし、社会や文化から受け取らされています。そして、受け取らずに終わってしまうこともあります。
まとめ 専門家ではないので個人の解釈です
また、寓意(アレゴリー)とメタファーについてはこんな感じです。例えば、神話「天岩戸」を皆既日食という実際の出来事を寓意化したものと考えます。
天岩戸 = 「ABCD」
ABCDは、全体としてひとつの物語。
皆既日食 = 「abcd」
abcdはそれぞれ、ひとつのまとまりをもった事件や出来事。
「abcd」 ⇒<寓意化>⇒ 「ABCD」
一方で、著者の作品における、主人公の周りで起きている出来事「abcd」と、主人公の心の内「ABCD」の関係はこんな感じです。
A →<メタファー>→ a
B ←<メタファー>← b
C →<メタファー>→ c
…
寓意化できるのは、エンディング(結末)を知った上です。現実の世界において私たちは人生の結末を知りませんので、メタファーの連続によって世界と心のあり方を認識しています。
これを著者は「相互メタファー」と言っているので、著者の言うメタファーとは、比喩表現としての暗喩ではなく、概念メタファー(別の概念に置き換えて捉える認識方法)を指していることが分かります。
では、私たちが見過ごしてしまったモノとは、一体どんなものがあったのでしょう?
私たちの認識の外にある物事を認識する方法はありません。しかし客観的に、誰かの物語を読む場合にはどうでしょう?