パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『鏡』 心(主観)が作り出す幻

高校の教科書に載っているらしく、課題に悩んでいる生徒たちが質問サイトに投稿しているのが目立ちます。本作の主題や著者の伝えたかったことは何だったのでしょうか?全力で考察します。

 

カニッツァの三角形 出典 北岡明佳教授による作図 錯視のカタログより

カニッツァの三角形』

     出典;北岡明佳教授による作図 「錯視のカタログ」より引用

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公(語り手)は数人の友人を自宅に招き、皆の話す怪奇譚を聞いていた。そして、皆の体験談を総括し、二つのタイプに分類した。一方は幽霊などの死の世界について、一方は予知などの超能力に類するものとした。また、それらが傾向として必ず一方に属し、混合することはないとした。語り手はどちらのタイプにも属する体験談を持ち合わせていないが、主人(ホスト)として、黙っているわけにもいかないと、口を開いた。
  2.  語り手は第三のタイプとして、幽霊も超能力も出てこない、自身の恐怖体験を提示する。それは、語り手が高卒後に肉体労働をしながら日本中をさまよっていた頃で、二ヶ月間ばかり中学校の夜警をしていた時に体験した不思議な出来事だった。特に問題なく仕事をこなしていたが、ある日突然、「嫌な感じ」がして見回りを躊躇する。しかし、語り手は仕事をごまかすことは嫌だった。
  3.  語り手は、仮眠していた自身の体を無理に起こし、夜警を始める。その日はプールの仕切り戸が壊れていて、風に煽られた戸が不規則に開閉していた。語り手は戸の開閉を、頭の狂った人間が首を振ったり肯いたりするみたいに感じた。台風が近かったせいでとても暗い夜だった。
  4.  その夜は、いつもよりも早足で廊下を歩いた。そして、玄関付近の暗闇の中で「何かの姿」を発見する。向き直るとそれは鏡に映る自身の姿だった。語り手は鏡と向き合い奇妙なことに気付く。鏡に映っている自分は「僕以外の僕」であり、鏡の中の像は「僕を心の底から憎んで」いて、「僕を支配しよう」と、手を動かし始めていた。

問題の抽出 主題と伝えたかったことは何か?

エンディングには触れませんが、主題は掴めます。不規則に開閉する壊れた戸を、「頭の狂った人間が首を振ったり肯いたりするみたいな感じ」「うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや…っていった感じ」とするなど、村上ワールド全開です。

 

『鏡』は、短編集『カンガルー日和に』収録されています。

 

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学校の課題としては、『羅生門』や『少年の日の思い出』と比較し、「語りの効果」を勉強する教材になっているようです。

 

錯視大解析

錯視大解析

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私の持っていたのは大型本で、こちらの本ではないのですが、同じく北岡教授によるものです。

 

 

 

全力考察 心が作り出す幻

 まず、第三のタイプとして提示された「鏡」ですが、これは異なる三つのタイプを統合する本作の主題となります。それは、「自身の心が自身を欺く」ということです。

 三つのタイプは互いに相容れず、個別に存在しているように見えて、実はその拠り所となっているのが不確かな主観であることが、著者のメッセージです。となると、なぜ「鏡なのか?」ということも、自ずと答えが出てきます。

 また、「壊れた戸」から受け取る印象は様々なので、「語り」の効果が分かります。なぜ、著者が「語り」を採用したのか?についても、語り手の主観を全面に押し出す為です。

まとめ 全ての恐怖は自分から始まる

鏡の中の像が「僕を心の底から憎んでいた」とし、それを生徒になぜか?と問うのは、教材としてはとても面白いと思いました。生徒はそれぞれに、自分自身と向き合うきっかけを得たのではないでしょうか。

ネットで見られる多くの考察は、幽霊やサイキックよりも「自分自身が一番怖い」と、対立させるものでした。でも、私の好みとしては、どれも皆「自分から始まっている怖さだよ」とするのが、しっくり来ました。

「氷山のような憎しみ」から、「村上春樹だから、どうせ自我の意識と無意識だろう?」とする考察もありましたが、もちろんそれもあると思います。しかし、そちらの方に重点を置いてしまうと、読み方としてテクストの持つ統一性を見失います。

語り手が客人ではなく主人(ホスト)となっている理由も「語り」である理由も、客観ではなく主観の話になっているからだと思います。