パスタを茹でている間に

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考察・海辺のカフカ 笛を吹くジョニー・ウォーカー

村上春樹著『海辺のカフカ』を考察します。自己増殖をする暴力を擬人化した「ジョニーウォーカー」を止めることが出来るのは誰なのか?過去を引き継がず、未来を憂うこともない「今=ナカタさん」という読み方をしています。

 

 

テーマあるいは出発点

うつろな人間たちが世界に不条理をもたらす。そんな不条理な世界の中で私たちは如何に生きていくべきか?

著者の解決あるいはメッセージ

世界が不条理に満ちていたとしても、私たちは自身のアイデンティティを自己の内側だけでなく、他者との関わりの間に求め、現実を喰らっていく覚悟を持たなければならない。

「私とは何者か?」自己の内側や出自に答えを求めても、そこに自分は見つからない。

「誰とどのような未来を望むのか?」そのベクトルが、自己を決定する。

 

 

何だかとっても薄っぺらい読み方で、恥ずかしいですが、

 

エディプス・コンプレックス  ◯ミノス王の迷宮  

 こちらの作品については、エディプス・コンプレックスの変形や発展と読む解釈があります。著者もその誤読を誘っていますが、本作をギリシャ神話と結びつけるのであれば、「ミノス王の迷宮」が正しいです。心理学で「迷宮」は「死と再生のシンボル」であり、カフカの父親の創作物も「迷宮シリーズ」です。

 生け贄を前提とした社会を止めなければなりません。

 

未来・過去・今 戦争を止める方法 

我々が戦争を始めるのは「未来」を恐れるからです。我々が戦争を始めるのは、「過去」があるからです。そして、戦争を直ちに止めることが出来るのは、「今」です。

 

  1. 未来を悲観せず、            (さくらさん)
  2. 過去を引き継がず、           (佐伯さん)
  3. 、私の心が感じるままに暴力を否定する (ナカタさん)

 

さくらはゴーギャン 自身をベクトルで説明する

まず、さくらについてです。

”なんに意味があるかといえば、私たちがどこから来て、どこに行こうとしているかってことでしょう?”ー上巻p.47

この台詞はポール・ゴーギャンの代表作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を彷彿とさせます。さくらの場合『我々は何者か』という根元的な問いを省略していますが、このことから、私にひとつのアイデアが生まれ読み方が深まりました。
 つまり、田村カフカは自身のアイデンティティを自己の内側にのみ求めようとし、またそこから逃れようと苦しみます。一方でさくらは、自身のベクトルによって、自身を説明しています。これは、自己の内側に暗いものしか持たない主人公には希望となります。そして、この物語においてさくらは『現実』と『未来』を象徴する存在となります。

”さくらさんは現実の世界に生きていて、現実の空気を吸っていて、現実の言葉をしゃべっている”ー下巻p.106

 

ポール・ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

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ホシノちゃんの哲学的なセックス

”純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である”ー下巻p.96

この物語において、現在過去未来をそれぞれ、ナカタさん、佐伯さんとすることは出来ても、さくらを未来とするのは少し乱暴な気もします。しかし、今がどこであろうと重要ではない、自分がどこに向かっているのかが重要なのだとする考え方は、未来志向のリアリストです。

”人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒体としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができる”ー下巻p.98

つまり、他者との自己と客体との投射と交換によって自己意識を確立するのであれば、自己意識の確立において、他者との関わりが不可欠となります。主人公の苦しみは、自分とは何者か?自己の内側に答えを求めたとき『父親に呪いの言葉を吐かれた自分・母親に捨てられた自分』しかないので、それは迷宮に足を踏み入れているようなものです。迷宮から抜け出すには、自己のアイデンティティや存在意義を他者との関わりの中に見いだす必要があります。

”君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり”ー下巻p.270

こちらは大島さんの言葉ですが、相互メタファーと迷宮性という言葉を使って、やはり同じく、内側を知るには外側を、外側を知るには内側をと言っています。

うつろな連中・硬直するシステム

 私たちは何らかの目的をもって、仕組みなり組織なりシステムなりを作りますが、それらはあくまで手段として用いるだけです。しかし、時にそのような手段は目的を忘れ、手段の維持と強化のみが目的化してしまっていることも少なくありません。
 
例えば、
 男女平等の考え方に賛成の立場の人であっても、図書館に訪れた奇妙な二人組に対しては「そんな連中と同じには思われたくない」と考えるかもしれません。しかし彼らからすると、自分達の行いは正しく、自分達の組織への攻撃に対しては断固として戦います。そして、彼らが自分達の正当性を主張し、活動を活発にするほど、周りからは理解を得られず、本来の目的である賛同者を得ることから遠ざかります。ですが、そのことすら彼らにとってはどうでもいいことで、社会批判と組織の維持自体が目的化してしまっているので、男女平等の社会の実現は二の次になっています。
 
 このようなケースはいたる所で起こり、それは時にセクト同士のつまらない対立をもたらし、効率的なホロコーストを考案させ、「橋の爆破」という既に無意味となった作戦を決行させ、システムの維持を目的とした新たなシステムが産み出されます。そして世界は不条理で覆われてしまいます。

女教師の告白 集団昏睡事件

かなりのページ数を割いて書かれている『集団昏睡事件』ですが、これにはいったいどんな意味があったでしょうか?

”私は自分の都合のために、公式の場で事件の経緯を一部意図的に作り替えて証言してしまったわけです。”ー上巻p.204

 

”それは戦争の時代でしたし、私たちが「たてまえ」で生きている時代でした”ー上巻p.211

 

ナカタさんが損なわれてしまったことの、直接的な原因は「たてまえ」ではありませんが、女教師からしてみれば、自分が素直に話していれば適切な処置がなされ回復が早まったのではないかという後悔があります。この「たてまえ」もやはり、戦争という時代の中で「社会が求めている答え」を女教師が選んでしまったことです。
また、軍の正式な報告書の形をとって昏睡事件が語られますが、女教師の「嘘でした」の手紙によって、過去の事実が変わってしまいます。つまり、現在に生きる人々が過去の事件を詳細に調べたとしても、必ず真実に到達できるとは限らないということです。ならば、何を根拠に過去の戦争を間違いであると否定できるでしょうか?

過去も未来もなく「今」しかないナカタさん


図書館を訪ねてきたナカタさんに向かって佐伯さんはこんなことを言います。

”過去において私が求め、現在においても私が求めていることです。(中略)つまり今が来るのを”ー下巻p.357

「現在」と「今」の違いが私には良く分かりませんが、ナカタさんは「今」のようです。また、佐伯さんは自身の死を待っていたと読むこともできます。

”戦いは、戦い自体の中で成長していく。それは暴力によって流された血をすすり、暴力によって傷ついた肉をかじって育っていくんだ。戦いというのは一種の完全生物なんだ”ー下巻p.348~349

 

”それが人間の歴史の骨子だ”ー上巻p.300

ジョニー・ウォーカーは自己増殖する暴力を擬人化したように描かれていますが、ここでその暴力を止める資格を有するのは、過去の戦争を知らず、未来を憂うこともないナカタさんです。未来を悲観して戦争が始まるのも事実です。

 

 

ジョニー・ウォーカー 自己増殖する暴力

ハーメルンの笛吹男を連想させます。要約すると、問題の解決の為に雇った男に、その代価を支払わなかったので、代わりにもっと大切なモノを奪われるという童話です。
過去の戦争で失われた命の代価として、今を生きる我々が差し出すことのできる相当の代価とは、何になるでしょうか?そして、支払いを拒んだために、私たちの魂は致命的に欠損してしまってはいないでしょうか?
最終的にジョニー・ウォーカーはカラスと呼ばれる少年との決戦を迎えるわけですが、カラスと呼ばれる少年は父親由来なので、倒すことができません。
我々が支払うべき代価とは自身の内側にジョニー・ウォーカーの存在を認めることではないでしょうか。

 

 

未来を喰らっていく獣 佐伯さんの祈り


SDGsなんて聞こえの良い言葉を使っていますが、所詮私たちは未来を喰らっていく浅ましい獣にすぎません。
主人公はさくら(現実)の中に入ると表現し、また、佐伯さんについても、

”母なるものを汚(けが)し”ー下巻p.351

と丁寧にルビまで振ってくれてあります。佐伯さんの過去が謎のままであったとしても、「田村カフカが生きている」という、その存在自体が、不条理な出来事を昇華してくれる佐伯さんにとっての願いとなり、主人公からすれば不条理な出来事の上に立つ覚悟となります。

自己を決定するのは、過去の出来事でも、今の環境でも、決定された未来でもありません。

 

「誰とどのような未来を望むのか?」 

それが「私」です。

そして、「未来を生きる田村カフカ」が、佐伯さんの祈りです。

 

2022年11月 追記

カーネル・サンダース は何者か?

デウス‐エクス‐マキナ

 主流となっている読み方としては、カーネル・サンダースデウス‐エクス‐マキナ(機械仕掛けの神)とするものがありました。多くの人がこの読み方をネットで示していたのですが、私も検証してみましたが、賛成できませんでした。
 「機械仕掛けの神」とは、ギリシア演劇の終幕で、カオスに取っ散らかった状況に大岡裁きをして秩序を与えるものです。一方、本作におけるカーネル・サンダースは、中盤から登場し謎を深めていく存在です。

橋渡しする雷(カーネル・サンダース) 

 私の好きな言葉遊びです。カーネル・サンダースが誰であろうと、「彼が何をしているか?」が物語における彼の役割です。

”私の役目は世界と世界とのあいだの相関関係の管理だ。(中略)原因のあとに結果が来るようにする。(中略)現在のあとに未来が来るようにする。”ーP.121

カーネル(英: kernel)

カーネルは、階層型に設計されたオペレーティングシステム (OS) の中核となる部分で、アプリケーションとハードウェアの架け橋である。”ーwikiより

 どちらも綴りは違うのですが、私が言葉の響きから想像するのは、「カーネル・サンダース = 仲立ちする雷」です。

”これから雷さんがたくさんやってきます。雷さんを待ちましょう”ー下巻P.164

”一昨日のすさまじい国宝級の雷”ー下巻P.147

 接点の無い物語同士を結びつけているのが雷です。佐伯さんは雷に打たれた人を取材していて、父親は雷に打たれた経験があります。
 また、「橋を爆破」だったり、「橋を渡って四国」だったりします。言葉遊びは無視したとしても、天と地を結ぶ雷が、過去から現在、現在から未来へと橋渡しをしています。ここでの過去とは戦争も含みます。
 そして、カーネル・サンダースは「概念の擬人化」で、一般的にはメタファーではありません(擬人化や象徴はメタファーに包括されている部分集合なので、広義にはメタファーでも差し支えはありません)。
 本書においてメタファーと呼べるのは、読者が「機械仕掛けの神」だったり「橋渡しする雷」だったりと、『読み替える』ことです。

 

カラスと呼ばれる少年 仮定するナイフ

 「少年カフカ」で著者は「カラスと呼ばれる少年」について、「折りたたんで持ち運ぶこともできる」と読者の質問に答えています。私からすると場外で読者サービスするぐらいなら、「テクストでちゃんと示せ!」と怒りが収まりません。

拳銃は発射されなくてはならない

”『もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』”ー下巻P.127

いろんな作品でチェーホフが引用されています。 

”父親の机の中から持ち出してきた鋭利なナイフだ。もし必要があればそれで手首の血管を切り裂き、僕の中にあるすべての血を地面に流し去ることができる。そうすることによって、僕は装置を破壊するのだ。(中略)僕はうつろな人間なのだ。”ー下巻P352.

 物語の冒頭で出てきたナイフは、バッドエンドを暗示しています。このドラマツルギーの無視が、運命あるいは宿命を乗り越えようとする著者の挑戦です。父親由来のナイフですが、父親由来は他にもあります。

仮定するナイフ

”でも仮説に対する反証のないところに、科学の発展はないー父親はいつもそう言っていた。”ー上巻P.432

”僕は仮定をする一羽の黒いカラスになる。”ー下巻P.376

 つまり、主人公カフカは父親を嫌いながらも、父親の主張を引き継ぎカラスと共に困難を乗り越えようとします。

”もし人間が本当に弁証法的に自らを高めるべく作られた生物であるとすれば”ー「1973のピンボール」より

 しかし、父親の主張するところは「科学の発展」です。この物語の主題は、カフカメタファーを介して、「母の祈り(願い)」を自身の中に発見しアイデンティティを取り戻すことです。(これがメタファーです)
 この「発射されないナイフ」は、戦争の否定でもあります。この物語の進行は、カフカ少年のビルディングス・ロマンの形式をまとっていますが、語られていることは「ナイフ(暴力)」を自分の内側に認め、「母の祈り」を継承することです。

 読書の醍醐味は自由な読み方ですので、他の人たちがどう読もうと読者の勝手です。正しい読み方(正解)はどこかにあるのではなく、個々の読者の中にあります。私の考察では過去・現在・未来を『読み替えて』いるのですが、これが私のメタファーを介した物語の読み方です。 

 

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