考察・村上春樹著『めくらやなぎと(、)眠る女』 風を可視化する柳
こちらの作品はふたつのバージョンがあり、ひとつはオリジナルの『めくらやなぎと眠る女』と、それを短くした改稿版の『めくらやなぎと、眠る女』です。それぞれ、「蛍、納屋を焼く、その他の短編」と「レキシントンの幽霊」に収録されています。
プロット あらすじの代わりに
オリジナル『めくらやなぎと眠る女』のみの記述を緑色で表示します。
どちらにも共通している内容は黒色で表示します。
改稿版『めくらやなぎと、眠る女』で変更・追加された表現を青色にします。
主人公は25歳の男性で、東京で勤めていた会社を辞めたばかりで、(腸の癌で亡くなった祖母の葬儀のため)帰郷していた。実家でダラダラしていると、ある日伯母がやってきて、10歳年下のいとこの通院に付き添ってくれないかと頼まれた。病院行きのバスを待ちながら、主人公は5月の風の持つ奇妙な生々しさを思いだし、いとこに説明しようとした。
しかし、失った経験のない人間に、失われたものの説明は不可能だと諦めた。いとこは小学生の頃、ボールがぶつかって右の耳が難聴になった。良くなるときもあったが、両耳とも聞こえなくなるときもあった。以来耳鼻科に通い続けたが一向に回復せず、今回、病院を変えたが、主人公は心因性も疑った。
病院へと向かうバスは、主人公が高校通学に使い慣れたバスルートだったが、座れる席もないぐらいに混んでいて、乗客は老人ばかりだったので、いとこと主人公は困惑した。
乗り込んだバスを間違えたかもしれない?不安にかられた主人公は案内板の確認のために、運転席の後ろまで見に行った。振り返って戻ろうとしたとき、バスの乗客が胸にブルーのリボンをつけた老人ばかりで、男性はネルシャツで女性はワンピース姿で統一されていた。主人公はハイキングかピクニックの団体が「乗るバスを間違えている」と思った。しかし、無事に病院に着いた後も「自分達が間違ったバスに乗ってしまった」という違和感を拭えなかった。
いとこの診察を待つあいだ、主人公は高校時代の「お見舞い」を思い出していた。それは、主人公の親友の彼女が胸骨の位置を矯正するための手術の際、親友とバイクで入院を見舞った日のことだった。彼女は学校の課題だった詩作をしていて、「めくらやなぎ」の物語を主人公たちに語って聞かせた。
「めくらやなぎ」は彼女の考えた架空の植物で、しだれ柳ではなく群生するツツジのような外観で背は低く、根を深くはり、暗闇を養分とする楊(やなぎ)だった。ある日、めくらやなぎの花粉を運ぶハエが、丘の上の家に住む女の耳に潜入し、女を眠り込ませる。ある男が女を眠りから覚まそうと、生い茂るめくらやなぎを掻き分け丘を上るが、そのときには耳から侵入したハエによって女は内側から食べられてしまっている、というストーリーだった。
診察を終えて戻ってきたいとこに向かって、主人公はまったく聞こえないときの状況を尋ねる。いとこは、
”「(略)そういうのって、耳が聴こえないこととは直接関係のない、びっくりするようなことが意外にすごく大変だったりするんだ」”ーP.162
”「(略)耳栓をして深い海の底にいるみたいにさ。しばらくのあいだそれが続くんだよ。そのあいだは耳はたしかに聞こえないんだけど、でも耳だけのことじゃない。耳が聞こえないのは、それのほんの一部のことなんだ」”ーP.204
と答える。続けて、西部劇の映画のワンシーンを切り取り、
”「インディアンを見かけたというのは(本当は)(つまり)インディアンはそこにはいないということです」”
という台詞が、耳のことで誰かに同情される度に、意味も分からず思い出すと語った。
主人公は、いとこに促されるまま、いとこの耳の奥を覗き込み、(いとこ)(彼女)の耳に巣食っている目には見えない微少なハエたちのことを思った。
問題の抽出 インディアンを見かけたならそこには居ない
今回は(も?)グダグダで、プロットとは言いながらも、きちんと論理の展開を追うことが出来ませんでした。もう少し時間を置いてリライトしてみます。
問題の本質は、「いとこの難聴」ではなく、いとこが感じている「深い海の底」というのを書きたかったのですが、伝わりましたでしょうか?
物語の統一を読むには、「いとこの抱えている問題」=「めくらやなぎ」であることを示さなければなりません。
オリジナルではいとこの耳の中に巣食うハエを想像して、いとこを心配しているのですが、改稿版では、いとこの耳を覗き込みながら彼女の耳に巣食うハエを想像し、めくらやなぎの丘を置き去りにしてきたことを後悔しています。
関連する作品
いとこが感じているのは、「海の底に沈む鉄の箱」です。改稿版にしかない表現なので、オリジナルの方だけでは主題を見つけるのが難しいです。
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オリジナル『めくらやなぎと眠る女』
改稿版『めくらやなぎと、眠る女』(縮小版)
全力考察 目に見えないナニかが進行中
しだれ柳は、目で見ることの出来ない風を、目で捉えることの出来る形に変換する装置です。オリジナルは短編全体にわたって、「風」に関する記述が多いです。「風」とは時代の風・風潮・スタイル・スタンスのことです。
病院の待ち合いや食堂で癌について会話する人たちがいて、癌を「人間の生き方の方向性の凝縮」としています。
行きのバスは新型の車両なのですが、バスを「新しい感覚、社会、時代」と読めば、主人公の「場違い感」の意味が分かります。また、オリジナルでは、「いとこ=14歳の頃の主人公」として、昔の自分自身を励ましているようにも読むことが出来ます。
肝心のインディアンですが、「本質は目で見ることも、音として聞くことも出来ない」の意で、目で見ることの出来る物事の裏で、「見えないナニかが進行中」と読みました。つまり、いとこにとって難聴は、いとこを苦しめるナニか?の一部に過ぎません。
オリジナルでは、
めくらやなぎの葉 = とかげの尻尾 = 記憶の断片
となっています。主人公もめくらやなぎに侵食されているのか?高校時代の「お見舞い」を思い出そうとしても、断片化された記憶を結びつけて思い出すことが出来なくなっています。
まとめ
もう少しうまく書けると思ったのですが、自分にはこの辺が限界のようです。
著者は柳(やなぎ)と楊(やなぎ)を区別しているのか?分かりませんが、しだれ柳をポジティブに、めくらやなぎ(楊?)をネガティブに感じました。しかし、風の可視化については、双方とも同じ役割だと思いました。