村上春樹著、短編集「パン屋再襲撃」より表題作の『パン屋再襲撃』を考察します。
主人公は学生時代に金欠で食べるものにも困ったときに、当時の相棒(パートナー)と共にパン屋を襲撃した過去があります。十年後、主人公は就職・結婚して、まともな社会人になっているのですが、深夜に極度の空腹感で目を覚まします。何故か奥さんも異常な空腹で眠れなくなり、主人公は過去の失敗を奥さんに告白します。
するとどういう訳か、奥さんはパン屋襲撃を成功させなければならないと主人公に説き、夫婦で再襲撃を企てますが、深夜営業のパン屋がなかったので仕方なくマクドナルドを襲うというお話です。
四段プロット あらすじの代わりに
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主人公は法律事務所に勤める30歳手前の既婚男性。深夜の2時頃に堪えがたい空腹で奥さんと共に目を覚ます。冷蔵庫にはまともな食べ物がなかったので、主人公はビールで空腹を埋めながら若いころのエピソード、「相棒と共にパン屋を襲撃しパンを強奪しようとしたこと」を奥さんに語る。
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当時、主人公は無職で金が無く食べるものにも困り、パンを強奪するためにパン屋を襲撃した。しかし、パン屋の店主がワーグナーの愛好家だったため、「ワーグナーを一緒に聴いたらパンを好きなだけ持っていって良い」と交換条件を提示され、当時の相棒と共にこれを受け入れる。
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主人公が特殊な飢餓感と戦いながら当時のことを思い出していると、今の自分の状況が啓示的なイメージとして浮かび上がってきた。それは、「自分が小さなボートの上から海底火山を見下ろしている」という情景だった。異常な空腹感で頭が正常に働かない中、主人公は奥さんから「わたしまで空腹なのは、あなたが呪いにかかっているからだ」「呪いを解くためにはもう一度パン屋を襲撃し成功させなければならない」と言われ、その提案に従う。
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新婚夫婦は車で深夜の町に繰り出しパン屋を探す。どういう訳か、奥さんはレミントンの散弾銃を持っていて、顔を隠す目出し帽まで準備されていた。しかし、深夜営業のパン屋は見つからず、二人は仕方がなくマクドナルドを襲撃することにした。客席には学生風カップルがいたが、眠っていたので取り合わず、二人は店員に散弾銃を突きつけながら、ビックマックを30個要求した。
問題の抽出 学生運動の失敗
一回目のパン屋襲撃は70年代の「学生運動の失敗」だとする読み方が主流です。そして、革命が成就しなかったために、「ワーグナーの呪い」を受けたので、その呪いを解くべくマクドナルドを襲撃します。
パンと市民革命
なぜパン屋なのか?ですが、パンを求めて起こった革命が二つほどあります。ひとつはフランス革命で、もうひとつはロシア革命です。
フランス革命ではマリー・アントワネットの台詞「パンがなければお菓子を」が有名ですが、実際には市民革命の正当性を強調するために、後付けで王政を批判するために創作されたと言われています。
ロシア革命では「パンと平和」を求めて市民がデモを起こしています。当時ロシアでは戦争の真っ最中で、市民は食べるものにも困っていました。そこで、戦争を止めるべく帝政を破壊しようと市民が立ち上がり、その後社会主義国家ソビエト連邦が誕生します。
パン屋襲撃とパン屋再襲撃
一回目のパン屋襲撃の理由は、働きたくなかったのでお金が無くて食べるものもなかったからです。
二回目の再襲撃の理由は、パン屋の店主の提案で被ってしまった「ワーグナーの呪い」を解くためです。
一回目の襲撃で「ワグナーの呪い」を被った主人公は、学校に戻り法律事務所に就職し、結婚し、真っ当な人生を歩むようになります。
ワグナーの呪い リヒャルト・ワーグナーのプロパガンダ
作中ではパン屋の店主が「ワグナーのプロパガンダ」となっていますが、ワーグナーはヒトラーのお気に入りで、「ナチスのプロパガンダとして利用」された歴史があります。
プロパガンダとは、国家においての思想統制や政治活動、企業など小さな括りでは宣伝広告や広報活動を言います。
リヒャルト・ワーグナーのネガティブなキーワードを並べると、ナショナリズム・民族主義・大衆娯楽・大衆迎合・スノッブなどがあります。これらを受け入れることが主人公の被った呪いです。
ネガティブなキーワードばかり並べましたが、本作との関連を考察するために集めただけです。ワーグナーは皆さんもご存じのように偉大な作曲家です。
(他にも、反ユダヤ主義的傾向もありますが、本作とは関係ありません。そもそも、ワーグナーの論文「音楽におけるユダヤ性」では、「音楽における」と区切った上で、また、Judenthumとは「金儲け主義」「強欲」などの意味もあったため、直接ユダヤを批判したものではありません。)
海底火山の心理学的解釈
「ジグムント・フロイドではないので」海底火山の分析はできないとする主人公ですが、心理学的な夢解釈では「無意識に蓄えられている感情が爆発しそうになっている」とするのが妥当と思われます。
極度の空腹(飢餓感)が、欠落感(不在の実在)を生じさせ、ボートと海底火山の間にある海水を異様なまでに透明にし、自分と火口との距離感を不確かなものにしています。
眠り続ける若いカップル 欠落感⇔充足感
主人公達がマクドナルドを襲撃している間、こんこんと眠り続ける若いカップルですが、彼らは「夢の中」にいることが表現されています。つまり、主人公達を襲った空腹による睡眠の中断は「夢を奪われた」ことで、カップルの安眠は「夢の中」にある充足感です。
このとき、カップルが受け入れている夢は「ワーグナーの呪い」です。
マクドナルド 革命失敗後の世界の象徴
”カウンターの女の子は突然スキー・マスクをかぶった我々の姿を唖然とした表情で眺めた。そのような状況についての対応法は〈マクドナルド接客マニュアル〉のどこにも書かれていないのだ。彼女は「ようこそマクドナルドへ」の次を続けようとしたが、口がこわばって言葉はうまく出てこないようだった。” ーP.29
主人公も法律事務所に勤めていますが、基本的にルールを守る社会人です。
関連する作品 村上春樹と学生運動
著者の作品では70年代の学生運動に関する反省がいくつか登場しています。
「風の歌を聴け」
70年代風に時代の風を受け流した。
while-boiling-pasta.hatenablog.com
「1973年のピンボール」
自我(エゴ)の中から自己(社会と共有できる自分)を抽出し、自我を縮小する。
while-boiling-pasta.hatenablog.com
「ノルウェイの森」
大人になるために自身の内側にある「子供らしさ」を失った。
while-boiling-pasta.hatenablog.com
「羊をめぐる冒険」
大人になるために生け贄として捧げたもの。社会批判をすることでアイデンティティを確立しようとした。
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全力考察 ワーグナーの呪い
本短編の読み方は既に多くの考察や解説があります。そのほとんどが学生運動と結びつける読み方で、わたしも特に変わりません。しかし、「ワーグナーの呪い」と「眠る学生」についてはスルーされていましたので、補足する内容です。
主人公は働きたくない(モラトリアム)ので、強引にパンを奪おうと試みますが、パン屋の店主に諭され、ワーグナー的庶民態度を受け入れます。しかし、無意識に沈んだはずの革命精神が空腹(欠落感)によって呼び起こされ、鬱積したものを認識することが出来たというお話です。
まとめ お腹が空いた時に読みたい短編!
著者の短編の中でも特にシュールでコミカルな作品です。
”「あのマクドナルドをやることにするわ」と妻は言った。まるで夕食のおかずを告げるときのようなあっさりとしたしゃべり方だった”ーP.27
”「お金を余分にさしあげますから、どこか別の店で注文して食べてもらえませんか」と店長が言った”ーP.31
”「どうしてこんなことをしなくちゃいけないんですか?」と女の子が僕に向かって言った。「お金を持って逃げて、それで好きなものを買って食べればいいのに。(後略)ーP.33”
”妻は女の子にラージ・カップのコーラをふたつ注文し、そのぶんのお金を払った。「パン以外には何も盗る気はないのよ」と妻は女の子に説明した。女の子は複雑な形に頭を動かした。それは首を振っているようでもあり、肯いているようでもあった。”ーP.33