パスタを茹でている間に

・村上春樹作品について、偏見たっぷりに独自の読み方で考察しているブログです。・基本的に「テーマは何か?」の結論から書き始めますので、ネタバレです。・ただし、未読の方に対する配慮として、あらすじは省略しています。・断定的な表現で文章に不快感を持たれる方もいらっしゃると思いますが、「言いきる」ことを目標にしています。・ご了承ください♪

考察・騎士団長殺し 二重メタファーとは何か?

 

 

テーマあるいは出発点

キリング・コマンダー(我々人間に殺し合いを命じる存在)があるとするならば、我々はどのようにそのような存在から身を守ることができるか?

 

著者の解決あるいはメッセージ

子供たちがとても危険な現実の相に迷い込んでしまっている。子供たちを救い出すために、大人がイデアを否定しメタファー通路に飛び込み、関連性によって物事が生じる世界の中でその責めを受け、胎内くぐりの試練を経て生まれ変わらなければならない。そうすることによって、危険な現実の中にある子供たちを、比較的まともで安全な現実に戻してあげることができる。

 

 

『二重メタファー』とは二階建て構造の認識システム

 まず、著者の使う「メタファー」という言葉は、比喩表現の暗喩ではなく、「概念メタファー」のことを言っている場合が多いです。「概念メタファー」とは、ある概念を別の概念に置き換えて捉える認識方法です。

 著者はこのメタファーを二階建て構造にすることで、弊害が起こっていることを危惧しているようです。下に例を示します。<認識方法>と読み替えてください。その基底にあるのは<生物として>で、人間が社会を形成する際に、動物としてだけでなく新たな見方を必要とした事を言い表そうとしています。

  •  <生物として> <男として>
  •  <生物として> <日本人として>
  •  <生物として> <母として>
  •  <生物として> <社会人として>

 <生物として>の根本原理を否定するような<認識方法>を上に乗せてしまっていることが、ときに我々に害をもたらしているようです。

 

「社会で共有する認識システムの暴走」

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

キリング・コメンダトーレ ⇒ キリング・コマンダー 

次にキリング・コマンダーですが、作中は『騎士団長殺し』とあるだけで、『Killing Commendatore』と表記があるのは本の表紙だけです。

”現実の「コメンダトーレ」が正確にどのような地位なのか役職なのか私にはわからない”

ー第1部上巻p.131

とありますが、サヴォイヤ軍事勲章ではコメンダトーレは司令官を意味するようです。そこで司令官を英語に直し、Commander にしてあげると、Killing Commander となります。

ここで、Wedding Planner という職業を考えると、何をどうする人なのかすぐに思い当たると思いますが、動詞+ingで動名詞となり、動詞+erで~する人となります。  

a dancing teacher ダンスの先生  (動名詞)

a dancing teacher 踊っている先生 (現在分詞)

同じ形なので「殺人を命じる存在」が出てくると思います。この小説について、現代の物語に無理矢理に戦争のエピソードをねじ込んできたと読む人もいますが、私はむしろメインテーマと読みました。

 

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イデアとメタファー

次に、イデアですがWikipediaからそのまま説明文を引っ張ってきます。

”我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる”

 以上がイデアの説明になりますが、その説明文はメタファー(例えばなし)を使っています。もちろん、プラトン主義の人からすれば、例えばなしではなく真実なのですが。

 また、イデアを説明するには『洞窟の比喩』もよく使われるのですが、ちょっと私の方で発展させて違う形にしてみようと思います。ポスト・トゥルースに近い考え方です。

 例えば、

テーブルの上にコーヒーカップを置きます。そのコーヒーカップをライトで照らしテーブルに影が落ちるようにします。このときコーヒーカップイデア(真実・物事の真の姿)とすると、影の方が我々が知覚できる現実でとりえる姿となります。イデアは直視できないので、コーヒーカップは見えなくなり、光源の角度によって様々な形の影ができます。実際の例をあげます。

 

村上春樹南京事件を扱った」という事実

作中で、南京入城やアンシュルスの話題が挿入されますが、特に南京事件については、いろんなところで引用されました。大きく分けると、中国側ではそれを好意的に伝え、日本では批判的に引用され、その場合でも、「日本軍の全員が進んでそのような虐殺行為に及んだわけではない」と様々な形をした影が提示されました。

 ここで、著者の本当に伝えたかったテーマが何であったか?仮に私の読み方が正しかったとすると、どのような思想であれ様々な影の行き着く先は、ただ一点、キリング・コマンダー「殺人を命じる存在」を強める方向に集約されてしまいます。つまり、我々は未来を生きる子供たちに向かって、

 「このようにお前たちは殺し合う理由しかない」

と、言っているようなものです。メタファーで世界を捉えようとするとき、このキリング・コマンダーは「純真な平和を求める心」であっても絡めとり、自身を強めていく存在だと気付きます。なにしろ人間は平和を願って戦いを始める生き物です。

 

騎士団長とは何者か?

本来、一冊の本を語るときは、その本のみを取り扱うべきですが、著者が”プラトンイデアではない”と『みみずくは黄昏に飛び立つ』で語っていたので、その辺を解決しなければなりません。私は『みみずく』を読んでいないので、ネットだけで知り得た情報を整理します。

  1. プラトンイデアではない
  2. イデアの意味より言葉の響きが気に入った
  3. 彼(騎士団長)は古代の無意識からやって来た

 

また、免色さんは、自身の肖像画を完成させた主人公に対してこんなことを言っています。

 ”「それは言うなれば深い海底で生じる地震のようなものです。目には見えない世界で、日の光の届かない世界で、つまり内なる無意識の領域で大きな変動が起こります。それが地上に伝わって連鎖反応を起こし結果的に我々の目に見える形をとります。私は芸術家ではありませんが、そのようなプロセスの原理はおおよそ理解できます。ビジネス上の優れたアイデアもだいたいそれと似たような段階を経て生まれてくるからです。卓越したアイデアとは多くの場合、暗闇の中から根拠もなく現れてくる思念のことです。」”

ー第1部下巻p.63

 

つまりイデア(idea)とは、アイデア(idea)のことのようです。

 

また、プラトンイデアでは、善のイデアしかなく、「悪のイデア」というものがなく、「邪悪なる父」にはなれません。どうしても、悪のイデアについて語ろうとするときは、「善なる状態がない」と、変な言い回しをしなければならないそうで、ともかく「悪のイデア」はあらないそうです。

”「私は要するにイデアなのだ。場合により、見る人により、あたしの姿は自在に変化する」”

ー第2部下巻p.82

これも、プラトンイデアではあり得ない状況です。しかし、たったひとつのアイデア(着想)から始まった、一枚の絵画や一冊の小説が多様な解釈を生むことは、不思議なことではありません。ここで、著者の用いたイデアを『幻想』と読み替えてみます。つまり、著者が『人間が正しくロゴスを働かせれば真理に到達できるという幻想』を、イデアとして定義しなおしたのであれば、主人公が殺した騎士団長(イデア)は、プラトンイデアではなく、理性主義です。理性主義を否定して著者が新たに立ち上げたのは「メタファー主義?」となるのでしょうか。

 

 二重メタファーとは何か

二重メタファーは「白いスバル・フォレスターの男」とも書いてありますが、著者の説明をそのまま扱った方が良いと思います。

 ”あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥太っていくもの”

 ー第2部下巻p.159

 我々にとって正しい思いがあるなら、そして、それが二重メタファーなるものに奪われているのであれば、私たちはそれを奪われないように、また取り戻そうとするはずです。しかし、それができないのであれば、私たちは正しい思いを気付かない内に奪われてしまっていることになります。実際そんなことは起こりうるのでしょうか?私も考えてみましたが、人間的二重メタファーの例は思い付きませんでした。(2022/4/19更新しました!)しかし、ペンギン的二重メタファーなら考えてみることができました。

 ペンギン的二重メタファー

作中ペンギンのフィギュアが出てきましたが、私にはその意味はよく分かりませんでした。

例えば、

 ペンギンは他の鳥類と同じく子育てに大変熱心な動物です。しかし、子育てに失敗しヒナが死んでしまうと、他所のペンギンのヒナを誘拐してくるという生態があります。我々人間からすると「おいおいペンギン、そうじゃないだろう…」ととても悲しく見えます。ですが、彼らからすると大真面目で、ペンギンはそのようにして種を守ってきました。実際にはそういったヒナは途中で亡くなってしまう事の方が多いようですが。このとき、ペンギンにとって「正しい思い」が奪われてしまっていると、感じずにはいられません。しかし、そのような場合においても、我々人間の価値観をペンギンに当てはめる事はできません。

 一方、同じく鳥類でカッコウという動物も面白い生態があります。カッコウは他種の鳥の巣に卵を産み付け、自身では子育てをせずにオオヨシキリやモズの親鳥に自分のヒナを育てさせようとする托卵という行為をします。人間の善悪の基準では推し量れないものがあります。

 或いは、ペンギンの視点を借りて人間の生き方を見たとき、人間的二重メタファーも浮かび上がってくるのかも知れません。

 

まりえが迷い込んでしまった世界とは?

まりえが好奇心から忍び込み、抜け出せなくなってしまった免色邸ですが、そこはどんな現実だったでしょうか?それは、まりえの本当の父親かもしれない男の住む家で、その男はまりえの母親の衣服を大切に保管しており、夜な夜な軍用の双眼鏡を使ってまりえの家を監視して、そもそもその家自体がまりえに近づくために免色が強引な手段を使って入手したものでした。

「真実が何よりも尊い

もちろん、その考えは否定できなくもないですが、果たしてそのような事実をまりえに背負わしても良いものでしょうか?ほぼほぼ、まりえの知らないところで勝手に作られてしまった現実です。

ともあれ、作中では、主人公の行動とはあまりリンクしない形で、まりえが無事「まともな現実」に戻ってこれました。主人公がしたことと言えば「決意」ぐらいのものでした。

顔の無い男とは

私には何の事やら、さっぱり分かりませんでした。

ひとつの影

だらだらと書いていますが、絶対に自分の読み方が正しいとは思っていません。私の読み方もひとつの視点・影であることは承知しています。しかし、自分の読み方がかなり確度の高い読み方であると付け加える事ができます。それが不気味な子供「室」についてです。

 

不気味な子供「室」

津波の映像が映ると、私はすぐに手を伸ばして娘の両目を塞いだ。

「なんで?」とむろは訪ねた。

「きみは見ない方がいい。まだ早すぎる」

「でもほんとのことだよね」”

ー第2部下巻p.362

村上春樹作品はかなり個性的な登場人物ばかりですが、むろはまだ幼稚園に通う女の子です。その子にどうして「でもほんとのことだよね」なんて通常では考えにくい不気味な台詞を吐かせなければならなかったのでしょうか?これは単にテーマに直結しているからこそ、

著者はこのエピソードを捨てることが出来なかったのだと思います。

 

 

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