パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『ドライブ・マイ・カー』 演じる生き方

 村上春樹著『ドライブ・マイ・カー』を考察します。短編集「女のいない男たち」に収録されている短編ですが、映像化作品がいくつもの賞を受賞しているそうです。私は未視聴なのですがネットから得た情報によると、原作とは違う部分があったり、同短編集に収められている「シェエラザード」や「木野」がエピソードとして挿入されているとのこと。

 映像化作品は別物として、私は原作のみで考察します。映画しか見ていない人もその違いを楽しんでください。

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

  1.  主人公の家福は60歳前後の舞台俳優。髪は若い頃から薄くなっていたので主役には向かない。後年になるほど演技は高く評価されたものの、テレビの仕事は脇役が多く、俳優の養成学校の講師と舞台の仕事がメインだった。家福には20年間連れ添った2歳年下の妻がいた(彼女は主役級の正統派美人女優)。24年前、家福は妻との間に子供(女の子)を授かったが、生まれて3日目に心不全で亡くしていた。その後、家福は49 歳の時に妻を子宮がんで亡くし、以降は独身を通した。
  2.  ある時、家福は愛車(サーブ)を運転中に接触事故を起こし、その時の検査で緑内障が発覚した。家福の事務所は視力が回復するまで運転を禁止したので、家福は知人の紹介でみさき(24歳)を運転手として雇った。彼女は無愛想で寡黙だったが運転は上手く、車好きな家福を納得させた。ある日、家と仕事場の往復だけのルートを疑問に思ったみさきは、「友達はいないのですか?」と家福に訊ねる。「最後の友達は亡くなった妻の浮気相手の男だった」と家福は回想する。
  3.  娘を不幸で亡くしてから、妻は子供を欲しがらなかったので家福も了解した。しかし、その頃から妻の浮気ぐせが始まり、家福が知る限り4人の浮気相手がいた。妻は巧妙にそれを隠したので、家福は気付いていないフリを演じ続けた。家福はそれでも妻のことを愛していたので、妻の浮気を除けば満ち足りた結婚生活を送っていると感じていた。妻の死後、家福は妻が浮気相手に何を求めていたのか?疑問に思い、最後の浮気相手だった高槻(妻子持ちの俳優、当時は40歳過ぎ)に接触し、情事については知らないフリをしながら呑み友達を演じた。それが10年前に半年ほど構築した、偽りの友人関係だった。
  4.  家福は高槻に「20年も寝食を共にしながら自分には盲点があり、妻の全てを理解できていなかった」と愚痴ると、「本当に他人を見たいと望むのであれば、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない」と間男だった高槻に諭される。妻の浮気を見抜いていた家福は、自身の観察眼に絶対の自信があり、高槻を「奥行きを欠いたつまらない奴」と見下して評し、みさきに聞かせた。そんな家福に対してみさきは、時にソーニャを演じ、時に家福の娘の代わりになりながらやさしくなだめる。

”「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。

「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」”ーP.69

 

問題の抽出 他人を理解できるか

家福の盲点(ブラインドスポット)

 かなり極端に偏ったあらすじに書き直しています。(今回もプロットの精度が悪く、ほとんどあらすじになってしまいました。)

 映画を観た方はもちろんですが、原作を読んだ方でも「えっ?そんな話だっけ?」となるかもしれません。家福の問題・盲点(ブラインドスポット)は2点です。

  1. 他人であっても愛があれば全てを分かち合える
  2. 私生活でも演じ続ける 

高槻の美点

 この短編のポイントは、主人公である家福が間男の高槻をだましながら、懲らしめるチャンスを伺っているのですが、高槻から「他人を全く理解することはできない」と、逆に盲点(思い上がり)を指摘されることです。そして高槻は「他人の理解など不可能だからこそ、自分自身を見つめるべき」と続けます。皮肉なことに、このやり取りを経て家福の内にあった怒りが静まるのですが、家福はそのことに気付けません。

 

みさきの役割(ドライバー、ソーニャ、家福の娘)

 みさきはその名前に表されている通り、水先案内人として家福を導きます。みさきの様子についても家福目線で語られますが、ここでも家福の観察眼の鋭さが強調されています。

 家福が授かった子供が順調に成長していれば、みさきと同い年で、みさきの父親は家福と同い年です。みさきは家福の娘役やソーニャ役(戯曲「ワーニャ伯父さん」のワーニャの姪)を演じ分けながら、「演じながら生きることの不毛さ」をやさしく教えます。

 これは、この物語を客観視している読者にしか得られないメッセージです。物語におけるキャラクターとしてのみさきが、著者によって使い分けられています。

 

 ”「だからその人を懲らしめようと思った」と娘は言った。”ーP.66

 

 この「娘」とは、家福が自分の子供とみさきとを勝手にダブらせているのですが、みさきはそんな家福の思いを知りません。ここに、物語に取り込まれたキャラクターには理解し得ない視点が生じています。家福の中でみさきの役割(ドライバー、ソーニャ、自分の娘)が変化し、演じる側だけでなく、受けとる側も別のものを見ています。

   

関連する作品 「生き方=働き方」

「木野」 

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

”その夜は青山の小さなバーで二人は飲んでいた。根津美術館の裏手の路地にある目立たない店だった。四十歳前後の無口な男がいつもバーテンダーとして働き、隅の飾り棚の上では灰色のやせた猫が丸くなって眠っていた。”ーP.56

根津美術館には何かあるのでしょうか?

 

「ワーニャ伯父さん」

ワーニャ伯父さんも独身で、女のいない男たちの一人です。

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

全力考察 演じてしまう

 ペルソナなんて言葉を使ってしまうと、考察が急に陳腐になってしまうのですが、私たちはTPOに応じて顔を使い分けます。

 浮気に気付いていながらも、それに気付かないフリをし続けるというのは、かなりの狂気です。奥さんの方も気付かれないように演じ続けたわけですが、本当に奥さんが望んでいたのは「浮気を問い詰めてほしかった」のかもしれません。

 ”いったん真剣に演技を始めると、やめるきっかけを見つけるのがむずかしくなる。”ーP.47

 

 そして浮気については気付いていないフリをしながら、高槻と呑み友達になる(演じる)のですが、能力の無駄遣いです。観察眼と演技力が、かえって仇となります。

 チェーホフの「ワーニャ伯父さん」もビートルズの「Drive My Car」も「生き方=働き方」を共通のテーマにしています。

 そして、家福の「生き方=働き方」は「演じること」です。

 

 私たちは他人を見るとき、その役割で捉えています。

 私たちは演じているので、他人から理解されません。

 当然、私たちは他人を理解できません。

 

まとめ 演じる生き方

 みなさんは「社会から要求されるままに、自己を偽り周りを欺くような、演じる生き方などしていない。」とはっきり自信を持って言えますでしょうか?これは、誰かのお話ではありません。