パスタを茹でている間に

村上春樹作品を考察しているブログです。著者の著作一覧はホーム(サイトマップ)をご確認ください。過去の考察記事一覧もホーム(サイトマップ)をご確認ください♪

考察・アフターダーク 暗闇のあと

 

 

テーマあるいは出発点

テレビが夢を奪う。深夜営業の店や会社が、本当なら夢(無意識)の世界に居る人たちを現実に縛り付ける。本来なら抑制されている欲望が現実に吹き出し、あちこちで衝突する。マリはそんな危険な深夜(深部)の世界で、夢を見ている時間の中で、不思議な出来事や出会いを通し、自身の本当の願いに気づく。

著者の解決あるいはメッセージ

自分の願望や欲望を実現可能な代替品で叶えるのではなく、本当の自分の願いを自身で理解し、現実の世界で実現しよう。

 

あらすじとプロット

あらすじとプロットについては別記事に書きました。こちらをどうぞ。

 

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

夢の役割

夢には未来に対する自身の目標や希望といった意味もありますが、そちらではなく、私たちが眠っているときに見る夢にはいったいどんな意味と役割があるでしょうか?

ネットから集めた情報によると、こんな仮説があります。

  • ①記憶の整理
  • ②願望充足
  • ③年齢や段階における心の成長を促す
  • ④理想(意識)と現実のギャップから生じるストレスの緩和
  • ⑤無意識(自我?)と現実のギャップから生じるストレスの緩和
  • ⑥魂が魂の故郷に戻ってソウルメイトと会っている

②~⑤については、ユングだかフロイトだかの心理学になるのですが、自我については定義がバラバラで、著者も独自の解釈をしているようです。

例えば、

著者の場合、ちょうど桃のような果物を想像してもらって、可食部分の果肉を自己(セルフ)とし、その果肉に包まれた種の部分を自我(エゴ)とイメージしているようです。つまり、果肉(セルフ)を周り(社会)に対して有用(おいしい!)であることを示すことで、種(エゴ)の保存を約束させています。このとき、自己は社会に対してある程度の融通や妥協が可能なのですが、著者は自己の変容が自我にも影響を与えるのではないか?と危惧しているようです。(これらは、『若い読者のための短編小説案内』を私の方でギュっと纏めたものです。)

 

山梨県産 桃 5玉入り センサーで糖度を測定しをクリアしたプレミアムピーチ、大糖領! 日川白鳳、白鳳、加納岩白桃、浅間白桃、なつっこ、一宮白桃、川中島白桃と移り変わる桃源郷の軌跡

 

マリの本当の願いは何か?

あなたは今、私のブログ記事を読んでいますが(ありがとうございます!!)、それは本当に今あなたがやりたかったことでしょうか?

 

マリは始め、ファミレスでコーヒーを飲みながら本を読んでいますが、マリは何がしたかったのでしょうか?一人になりたかったのでしょうか?ファミレスに居たかったのでしょうか?コーヒーが飲みたかったのでしょうか?本を読みたかったのでしょうか?

全部違います。マリのしたいことは他にあるのですが、マリは現実に実行可能な範囲で、代替品で補っているだけです。

”眠ろうとすると、となりの部屋で眠り続けている姉のことが頭に浮かんでしまって。それがひどくなると、うちにいることができなくなってしまいます”ーp.239

だから、マリは夜の街をうろつくことになるのですが、しかし、これはマリの本当の願望ではありません。マリは皆が眠っているような時間の中で、自分の中にある大切な想いに気づきます。

”あのエレベーターの暗闇の中で感じた一体感というか、強い心の絆のようなもの”ーp.280

そして、本当の願いを口にします。

”エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。”ーp.286

つまり主人公のマリは、本来人間が夢の中で受け取っていたであろう無意識からのメッセージを、欲望が渦巻き、その代替品で溢れる危険な夜の街の中で、覚醒の状態にありながら受け取ることになります。

眠り続けるエリ

”自分がもう何者でもなくなり、ただ外部の物事を通過させるための便利なだけの存在になり果てていくのがわかる。”ーp.168

エリの置かれている状況(嗜眠状態)を考えると、③~⑤で、かなり強力な夢でエリのストレスを緩和してあげなければなりませんが、質的に相応しい夢を用意することができなければ、量でそのギャップを埋めてあげなければなりません。エリは白雪姫という役割を演じるために、自己を過度に明け渡してしまったが為に、自身を記号化してしまっています。つまり、

”一人一人違った顔と精神を持つ人間であると同時に、集合体の名もなき部分だ。ひとつの総体であるのと同時に、ただの部品だ。”ーp.290

 

”そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう。”ーp.143

ハイデッガーの『ダス・マン』を想い起こさせます。そうなってしまう前に、マリのように自身の本当の願いに気づかなければなりません。

白川

SEとして、システムの維持に従事しています。そして、自身の願望を実現可能な範囲で買います。この物語における役割としては、「人間の願望には清いものだけではない」といった感じで、主人公の周りに漂う危険な存在です。危険な夜の街は白川の周りで展開されていますが、主人公のマリはそんな危険な場所をすり抜けて正しいメッセージを受け取ります。正しいメッセージは危険と隣り合わせの場所にあるということでしょうか。

顔の無い男

騎士団長殺し』にも似たようなのが出て来ますが、別物なのかも分かりません。

”男は精緻な匿名の仮面を顔にかぶせられ”ーp.76

私がこの本を読んでいてイメージするのは、ニーチェの『畜群』(付和雷同する群集・大衆を軽蔑した比喩)です。

”人間を畜群と見なし、それからできるだけ早く逃げ出そうとする者は、必ずや当の畜群的な人間たちに追いつかれ、その角で突き刺される。”

ニーチェ『人間、あまりに人間的』より

全てのゾンビ映画のモチーフとなっている感覚ですが、これが本作の根底にあり、テレビの向こう側にあるものが、眠る私たちを監視しており、機会をとらえてテレビの内側に取り込もうとしているのではと考えてしまいます。

しかし、『顔の無い男』=『畜群』としてしまうのはかなり乱暴で、根拠が弱く、もっと別なもののような気がしています。ですが、本作全体としてはそれを扱っているものとして読みました。

『ダス・マン』も『畜群』も似たようなことを言っているのですが、『ダス・マン』は、自らの主体性を積極的に生活のなかに埋没させていく人たちを言い、『畜群』は「自分以外の周りの人間達も同じようにあれ」みたいに、同化しようとします。

 「みんなと一緒に居たい! でも、みんなと同じはイヤ!」

不思議な夢を見ていたかのような読後感

どの時点からかは分かりませんが、著者は読者が本を閉じた後に、「何やらとても奇妙な夢を見たよう気がする…」っといった、読後感を狙って小説を書いているような気がします。なので、物語自体がこういった分析的に読まれることに抵抗しているような気もします。でも、私にとってこの小説は、著者の作品のなかでも一番好きな物語です。ある意味これは、解釈ではなくファンレターです。

ゲーテ曰く

"人生は全て次の二つから成り立っている。

したいけど、できない。

できるけど、したくない。"

そもそも、何がしたいのかも分からない。

では、先程の問いに戻ります。

「あなたが今、本当にしたいことはなんですか?」