パスタを茹でている間に

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考察・村上春樹著『納屋を焼く』 同時存在するモラリティ

 村上春樹著『納屋を焼く』ですが、当初、映像化する権利はNHKが持っていたそうで、NHK版と「劇場版 バーニング」の二種類が存在するようです。

 考察に関しては主流なのが二種類あり、ひとつは「彼」によって彼女(納屋)が殺されて(燃やされて)しまったという読み方と、もうひとつは彼女が異世界に行ってしまったと読むものです。

 

 

 

四段プロット あらすじの代わりに

 

(長くなったので省略)

 

問題の抽出 同時存在とはなにか?  

 ”「(前略)僕はモラリティーというのは同時存在のことじゃないかとおもうんです」「同時存在?」「つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。(後略)」”ーP.68

 

 マリファナの使用と放火について語っているときに出てきた会話です。ちなみに、マリファナの使用については、合法・非合法は各国様々で、チュニジアでは違法だけど寛容な国だそうです。個人の道徳感もそうですが、場所が違えば倫理観や法律さえも異なっているのがマリファナです。

 モラリティとはなにか?

 まず、モラルとモラリティの違いですが、日本語では両方とも道徳(感)となります。しかし、英語ではmorals=morality=道徳(感)となり、moralを複数形にしないといけません。著者はこれを嫌ってモラリティーという言葉を使っていると思います。これは、本作における重要なキーワードです。

 

 道徳とはなにか?

 道徳(あるいは倫理)とは何か?日本看護協会のHPに分かりやすい説明がありましたので、引用します。

 

 倫(人の輪、仲間)

  +

 理(模様、ことわり)

  =

 倫理(仲間内での決まりごと、守るべき秩序)

  

 つまり、法律の枠外で、社会で共有すべき秩序を守るために、個人で判断すべき善悪ということになろうかと思います。

 

 同時存在とは何か?

 宗教的道徳観からすると、正しいことは神様が決めてくれていますので、信心深い人たちは個人では善悪を判断することなく、「神の教え」に従えば済みます。

 一方、ニーチェ以降、「神は死んだ」からは、個々に善悪を判断する必要が生じました。これが、「責めるのが僕で、ゆるすのも僕」の同時存在です。日本ではマリファナは違法ですが、チュニスでは寛容で、さらに合法化されている国では問題ありません。つまり、私たちは地域によって変化する道徳を拠り所に生きていることになります。

 

関連する作品 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った

 

 

 「神は死んだ」以降、ニーチェが説いたのは、人類が超人に至るまでの三段階です。

 

ラクダを経て獅子となり幼子に至る”ー『ツァラトゥストラはこう語った』より

 

 ラクダがキリスト教的道徳観に拠ることなく、個人で善悪の判断を背負っている状態「汝なすべき」で、ライオンは「我は欲する」と既成の道徳観を壊し新たな価値観を模索し、幼子に戻り創造的に遊ぶ段階です。

 

 つまり、「彼」の「責めるのが僕で、ゆるすのも僕」の同時存在は、ラクダの状態です。(神の教えではなく、自分自身で自分を律する)

 

 

 

全力考察 「蜜柑むき」とは何か?

 ”「要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」”ーP.53

 

 「蜜柑」に「モラリティ」を代入します。

 

 「モラリティ」があると思い込むのではなくて、そこに「モラリティ」がないことを忘れればいい。

 

”幼子は無垢、忘却、そしてひとつの新たな始まりである。”ー『ツァラトゥストラはこう語った』より

 

 つまり、パントマイム女子のしているのは、宗教的道徳観やモラリティに拠ることなく、善悪の判断もせずに「モラリティがあるかのように」出現させることです。

 

 例えば、

 自分の前を歩く人が持ち物を落として、その事に気づいていないとき、宗教的道徳観やモラリティで善悪を判断し、自分に善い行動を強いるのではなく、「拾って声をかけるのは、ただ単に私がそうしたかったから、そうするまでだ」です。

 

まとめ 納屋はキリスト教を象徴している

 パントマイム女子が殺されたのか?異世界に行ったのか?私にとってはどうでもいいことです。印象的な終わらせかたは著者のテクニックです。

 

 フォークナーや村上春樹が、納屋にどのような意味を象徴させたのか?分かりませんが、私はそんな風に読みました。

 

 「彼」や主人公の「僕」が、パントマイム女子に心地よさを感じたのは、彼女の存在が自分達のあり方を罰してくれているからだと思いました。