パスタを茹でている間に

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若い読者のための短編小説案内 作家は何を描きたいのか?

 

 

偏見の柱

”読書というものはもともとが偏見に満ちたものであり、偏見のない読書なんてものはたぶんどこにもないからです。逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにはどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味があるのではないかと僕は考えるのです。”ーP.25

 

 大変勇気付けられる言葉です。何しろ私はこのブログで好き勝手書かせてもらっています。表現としてかなり断定的で「著者の想いは~」なんて書いてしまっていますが、それはあくまで私がそう受け取っただけの話で、他の人がどう思おうが勝手です。

  目次

 

生きることと読むこと

”僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある。ーー生きることも、読むことも。”ーP.220

 私の考察は、押し付けがましい内容もありますので不快に思われる方もいらっしゃるかと思います。そのときでもまず、「この本は全体として何をテーマに書かれているのか?」を示すことで反論しやすいようにしています。

 これは、著者にしても、その作品にしてもサンドバッグではないので、まず読者である私の読み方が「偏見である」ことを表明した上で、自分の考え・読み方を示すようにしています。これは自分の中ではマナーの問題だと思っています。

 

自己と自我

”僕らの人間的存在は簡単に説明すると(中略)自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟み込まれて、その両方からの力を常に等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている。(中略)作家が小説を書こうとするとき、僕らはこの構図をどのように小説的に解決していくか、相対化していくかという決定を多かれ少なかれ迫られるわけです。”ーP.60

ここで、手前みそで申し訳ないのですが、以前私の書いた記事の一部を再掲します。

『著者の場合、ちょうど桃のような果物を想像してもらって、可食部分の果肉を自己(セルフ)とし、その果肉に包まれた種の部分を自我(エゴ)とイメージしているようです。つまり、果肉(セルフ)を周り(社会)に対して有用(おいしい!)であることを示すことで、種(エゴ)の保存を約束させています。

(これらは、『若い読者のための短編小説案内』を私の方でギュっと纏めたものです。)』

 

対立する自分と自分

 かなり乱暴に説明すると、社会の中における(他者との関わりの中における)自分が「自己(セルフ)」で、社会とは直接接することなく、他者とは〈ほとんど〉関係のない自分が「自我(エゴ)」です。

 この、〈ほとんど〉というのが難しくて、無人島でたった一人で暮らす自分でないと、全くの個という状態は無く、また自己が社会と接しているために、自我は自己を通して間接的に影響を受けているからです。「自己中心的なモノの考え方(エゴイスティック)」は、何よりも自我(エゴ)の保存を優先させることを言うようです。

例えば、

 乗っていた船が難破して、海に放り出されます。近くにあった一人分の浮き輪にしがみついていたところ、他の人がやってきて自分の浮き輪に掴まろうとします。このとき、やってきた相手を押しのけて浮き輪を独占するのはエゴです。

 緊急避難として罪には問われませんが、そのあとすぐに救助の船がやってきて、押し退けた相手に睨まれてしまったとしても、それは社会の中における自分「自己」よりも、「我の保存(エゴ)」を優先させてしまった結果です。

 本音と建前を使い分けたり、世間体を気にして本来の自身の想いを我慢したりするのも、自我と自己のせめぎ合いです。

本当の私はどこにあるのか?  

 著者の本を読んでいて、哲学だったり心理学だったりの用語が出てくるので、何を参照したらいいのか分からなくなるのですが、著者は著者独自の捉え方をしているので、一般的な用法は無視して、著者の考えにしたがった方が良いようです。

 本書は、この『桃』がメロンだったり、ココナッツだったり、外圧(社会が個人に要求すること)と内圧(個人が社会で実現したい願い)とのバランスを図解することで短編小説を紹介しようとする内容となっています。

読書家はなぜ物語を欲するのか?

 なぜこのタイミングで本書を扱うのかというと、次に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』について書こうと思っているからです。

 『世界の終わり~』は、「人間は28歳になると意識の総体はそれ以降変化せず、全体としてのカオスとしての意識がまず存在し、その中にちょうど梅干しのタネのように、そのカオスを要約した意識の核を人為的に存在させる」といった世界観の物語だからです。

 そこでは、「全体としてのカオスとしての意識」をスイカとも形容しています。なので、この頃の著者は、意識と無意識を区別せず、「全体としてのカオス」として自身を捉えた上で、自分の中にある不完全性を永久機関である梅干しのタネに送り込みその上澄みで意識を保っているとしたようです。

読者の態度

村上春樹流の読書術はこんな感じです。

 

①何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。

②そのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること。

③本を読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんなに些細なこと、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)、こまめにリストアップしていくこと

 

 私は一回読んだきりでは分からないので、通読で換算すると、何十回という単位で読んでいると思います。たぶん著者の期待する読者の基準に達しているのではないかと自分では思っています。